反日常系

日常派

最近の欲望

 死にたいなら早く死ねよ。極論だが正しいように思える。自分を否定する言葉としてとても使いやすいために、言葉の意味とは別に首肯せざるを得ない気がする。

 退院してからというものの、特筆することはありませんでした。もちろん、出来事という出来事がないわけではありません。退院の日、安いウイスキーウイスキーウイスキーで全部丸一日全部無駄にしてしまうようなライフイズパーティーをして(それにしても、メンヘラの言葉は最後に向かうにつれて莫大な引用と剽窃になっていくように思われます。それが幼児性の獲得なのか、ボケ老人のそれなのかはわかりませんが)、酩酊の末、手首を三十九針縫いました。次の通院が酷く気がかりです。医者が怒るようなことはないのだけど、行為に理由を求められると途端に弱ってしまうのです。理由などなく、慣性の力のような、風に吹かれただけのような、ほぼ自我とは関係なく行われる行為。形骸化と言ってもまだ足りないような、から騒ぎの空虚さ。「死にたいんじゃないの」と人に聞かれた。その言葉自体が、コンサートでニヤニヤとミスを待っている観客のようで、「早く死ね」と言われているように思えて悲しかった。死にたいのか、死にたくはないと思う。ただ思考を手放したいだけが一番近いのかもしれない。我思う故に我ありなら、我思わず故に我なしでもいいでしょう。熱狂にしろ忘我にしろ白痴にしろ、自分を肯定できるのは自分に自分を蔑ろにできる能力が備わっている時だけな気がします。

 最近、髪を切りたい。ばっさりと切りたい。したい髪型のために前髪を伸ばそうと思っている。痩せたい。最近、怠惰が空腹に勝るようになってきたので、これはいい傾向だと思った。ぼくは最近、男になりたい。元から男じゃないか、という反論もあるだろうけれど、セクシャルではなくジェンダー、社会的性規範を着替えたいというだけの話で、セクシャリティとしては到達したいとは思わないまでも女性性に目を向けているし、髭は生えないで欲しいし、勃起は完全になくなればいいと思っている。ぼくにとっての自分とは絶え間なく他者を志向しつづけるものなのだろう。髪を伸ばして一年くらいか。ロングヘアはぼくの手の負えないボリュームになっているし、ここらで気分を転換したい。コロナが終わるまではぼうっとして、飯も食わず前髪も切らず、外にも出ずに暮らしていけたらと思う。目標としてはBOOMBOOMSATELLITESの中野さんみたいな痩け方と髪型にしたいですね。急に俗な話になりました。これからは俗な話もしていきたいです。ぼくは賢ぶって自己ばかり見つめているけれど、人は触れてきたカルチャーによって語られるのではないか、と、二階堂奥歯の八本脚の蝶をぺらぺら捲りながら思いました。

 こうしているとサミュエル・ベケットの勝負の終わりを思い出します。それか残像に口紅を。それか風がふくときというアニメ。終末論に焦がれる人々のように、終わりを浮き足立ちながら(しかしそれ自体が希望的観測なのですが)終末的なムードを楽しんでいます。それにも飽きて退屈が勝った時、人々は希望を新しいおもちゃにするのか、絶望を新しいおもちゃにするのか、どちらにせよぼくは空腹でも飯を食いたくない今の気分が続けばいいし、夜は眠れるといいし、髪が早く伸びればいいし、ギターが弾ければいいです。さらに言えば病気の次に嫌いなマスクをしなくてもいいようになって欲しい。