反日常系

日常派

若くないと言い始める一番若い歳で

 したいことはなく、したいことはないという何度目かも忘れた宣言をまたここに繰り返す。一瞬だけ躁がやってきて、生活を破壊して、手首に引っ掻き傷をつけて去った。記憶がないのはいつものことだが、記憶がない時にカウンセリングの予約を取ったのは本当にやけになったとしか思えない。冷静という憂鬱の中のぼくには、一瞬でもカウンセリングという、「誰かがぼくを導いてくれるだろう」と言ったほとんど宗教的幻想を信じたということが馬鹿馬鹿しく響く。明日はカウンセリングだ。本当に面倒くさい。人が答えに到達できる悩みの中でうじうじしているほど自分が愚かだとわかるのは本当に信じがたいことだ。分析され、分類の中の悩みや症状の一つにもっともらしい顔でアドバイスされるとしたら、腹を立てないようにするのが精一杯だろうな。最近は何もかもが腹立たしくて困っている。人より自分を憎んでいたほうが幾分か役に立つというものだ。

 何回も気分が良い、気分が悪いということを言っている。おそらく後者の方が圧倒的に多いだろう。楽しいことをしたい。楽しいことなどない。何もしたいことはない。生きすぎたりや二十三。薬を貰えばその中で酩酊に相当するものを選んで飲み干し、酩酊が去ってから酷い醒めた現実の中で横たわっている。現実に身を置くことは本当に辛いことだ。些細なことが難しくなってきている。時間を守るだとか、人に会うだとか、そういった社会的な事物がただただ辛い。社会の中で人々がそれぞれ生きやすいように決められたルールたちにさえ腹が立つ。人にぶつからないように肩をすくめるくらいなら人のいないところですべてを終えたい。

 若々しさの共同幻想に夢を見ることもそろそろできない。若々しさがそのうち子供っぽい、幼いと評されるようになるだろう。自然とそういうものから卒業していくだろうが。コミック雑誌を楽しみに一週間を無闇に過ごすことなんて今はとてもじゃないが考えられない。やけにつまらなくなり、子供の頃は遠くだった場所にも飽き飽きしていく。長生きには飽きた。子供ですらなく、大人の社会的規範に馴染める気もしない。その癖にすくんだ足で足踏みした現在地点には飽きた。どうか終わりますようにとほとんど他人事のように思う。他人に救いを求める宗教的幻想を信じることができるとするなら、誰かがぼくを終わらすことができるということだけが信じるに値するだろう。