反日常系

日常派

生きかけたくもなかった

 リストカットをした。血がぴゅーと噴き出すまでいったのに、死ぬのが怖くて生き延びてしまった。生きるのだって死ぬほど怖い。死ぬことは生きることと同じくらい怖い。結局はどちらにしたって怖い。金がないこと、自分に金を稼ぐ能力がないこと、人の補助がなきゃ勝手に溺れ死ぬ人間なこと。死ぬことや生きることと同じくらい、それらが結果として自然と選ばれていることが怖い。ならさっさと自殺を凛とした姿勢で行うべきなのだけど、ぼくの自殺未遂にはなんの意味もない。自殺未遂、行きすぎて自殺企図と言われることもある。だけど何も意味はない。ただ馬鹿なだけだ。

 人なんかどうでもいい。けれどたまに人が恋しくなる。昔仲良かった人、その人のせいにして死のうとした人、今は依存も何もしてない。ただの空虚。空虚を埋めるための空騒ぎ。すごろくをして、延々同じところを行き来するのに似ている。さっさと死にたいよ。もっと言うならさっさと生きたいよ。結局は全ての能力が足りない。なにもできない。なにもできないから能動的ではない。もう嫌になっちゃった。生かされて、死なされて、人生はいろんなことを嫌になっちゃうゲームだ。

 入院をしている。しょっちゅう入院してるから書くことなんてもうない。いつも通り孤独で、いつも通り無為で、いつも通り死なないだけ。タトゥーを入れたい。自分を見つめるのは自分だけだから、せめて自己満足に生きたい。タトゥーを入れる日を待っている時だけが空虚じゃない気がする。

 バンドの練習をドタキャンという形で蹴ってしまった。やりたいはずなのに、やるのが怖くて仕方ない。やる気があるのかも今は鬱でわからない。メンバーが好きだからやってるという言い方が一番かもしれない。自分が作った音楽のたかぐらいは自分が一番知ってる。だから最近はギターを弾きたくない。でかいから嵩張るし、趣味なんかなくしてぼんやりと行きたい。受動を飽きない人間になりたい。ギターを見ると「お前の趣味はギターだ」と決めつけられているようで辛くなる。本当なのだろうか。「お前はギターが好きだ」「お前は曲が書ける」そういうような自己認識、全て疑わしい。文章もそう。「お前は本が好き」「お前には文才がある」そう思ってる割に周りと比べても秀でていない。子供の頃背伸びしてやってたことを今もやってるだけ。技巧も伸びず、大人びようとしていたことは大人になって当たり前になった。

 何が好きなのか、何が秀でてるのか、誰が好きなのか、誰が俺を好きなのか。答えは風に吹かれて凍えてる。何もない。無為。他人やカルチャーを吸収して、中身のある誰かになる体力もない。何も考えずに済みたい。さよならを遂げたい。