反日常系

日常派

季節に敏感であったりなかったり

 夕方のチャイムが一時間早まったことを、病室の二割も開かない窓越しに知った。精神をおかしくしていると様々なことに気付かなくなる。最低なのは精神をおかしくしていることすら気が付かないことだ。ぼくは親に「もうおかしくならないよ。大丈夫」と言う度に「そんなの約束できるかよ」と思う。寝言を言わないと約束できるだろうか? これから一生ボタンをかけちがわないと神に誓えるだろうか? そういう問題に似て、気が付くと気は狂っている。思ったよりも簡単なトリガーで、安全装置は勝手に外れ、自分を撃ち抜いてしまう。気が狂うことをとても難しいと考える健康な人々。正気は狂気の分別の一つに過ぎないのかもしれません。

 馬鹿みたいに頭良さそうに振る舞いやがってムカつくなあ! 二階堂奥歯『八本脚の蝶』を読んでいる。南条あやだろうが二階堂奥歯だろうが、たとえ文豪の遺書だろうが、死んだ人間の、死んだと言う点が評価されている、死によって幕を閉じる作品を読むと「こいつなんやねん。早く死ねや』と過去に書かれた過ぎ去った事実に早く到達したくてムカつく。

 ぼくは真面目に芥川龍之介に「こいつ早く死なねえかな」と考えている時がある。

 もう死んだ人間。今生きていていずれ死ぬだろう人間。そして後者の中でその終わりが近いだろう人間。どうして死というものは過ぎ去ってからだけ素晴らしいのでしょうね。もうすぐ死ぬくせに、蝉が脱皮に失敗して脱げかけた抜け殻を足に引っかけて生きているとしよう。どうせ死ぬんだが。

 ぼくは自分自身の賢そうに振る舞う匂いがキツくて殺意を持ちながら文章を書いている時がある。わたくしはね、著しくチョベリバである。

 結果が見えすいているから、ぼくの知り合いに、願うでもなく「いつ死ぬんだろう」と疑問を浮かべている人がいるんじゃなかろうかと思う。早くくしゃくしゃの笑顔を過ぎ去った思い出の中に潜ませたいものだが、なるべく死なないように頑張ろうと思う。血が吹き出すように切るにはどうしたらいいか、前に読んだ小説のヒロインみたいに、もう知識を蓄えた。症例のうちに存在するよりも、人々の中で登場人物として存在していたい。出来れば常に現在形で。こうした生きたいと思う感情の発露は我ながら珍しい。もっといろんな事に気づきたい。夕方四時半のチャイム、台風の来る気候のおかげで扇風機を押し入れにしまってもいいこと、今まで食べたことのない種類のカップラーメンが美味しいこと。そうやって感覚を鋭敏にしていく。どうせ正気が狂気の中にあるのなら、何も分からないよりは何かにつけて感慨深くなっていたほうがいい。主義というよりはただの生理的嫌悪に近い反知性主義に則ってこの言葉を使う。エモくなりたい。