反日常系

日常派

網目から転げ落ちて

 退院の目処が立ったので、通院先に電話をした。予約を取るためだった。

「たなかさん、どうなされました?」

「いや、退院の目処が立ったので通院の予約をしようと思ったんですけど」

「たなかさん今医療保護入院してるじゃないですかぁ……」

 話を聞いていくと、通院先の病院は任意入院しか受け付けていないため、自殺企図を繰り返して他の病院へ何回も医療保護入院をしている俺はもう診れないということだった。ようやく信頼できた医者からの説明でもなく、受付の人から聞かされた、自分のいないところの決定は他人事みたいに冷たく響いた。おそらく医者が決めたのだろう。友達が悪口言ってたことを聞くような、リアリティのない裏の顔を想像しては疲れた。

 病院を探さなければならない。自分が信頼でき、自分を信頼してくれる医者が必要だ。入院設備も必要だ。そして何よりやけにならない強さが必要だ。必要なものはいつだって手に入らないものだが。入院して安定したと思ったら、日々の方が不安定になって、簡単に死にたくなった。自分の命を自分で始末すること、それだけでいろんな人に迷惑をかける。失敗するとなると尚更だ。人と人とは支え合って生きているだとか、本質は違う。寄りかかりながら寄りかかられ、そうやって生きているのを美しく言ってるだけだ。人が死ぬ。そうすると悲しむ。それはその人に寄りかかっていたからだ。そうやってバランスを崩す。人は死ぬものだと全員がわかっていたなら。他人の命は自分の関われないところにあるということを全員がわかっていたなら。この世の中はもっと冷酷だっただろう。自己責任なんて言葉が流行って我々が生きづらくなったのと同じように。しかし、もう少しの冷酷さで我々は簡単に死ねるようになっていただろうな。

 

 カウンセリング先への診療情報提供書を好奇心で見た。意訳すると派手な自傷をする自己嫌悪家という感じだった。だから人はいやだ! より激しい自傷をせねば、より死の淵に近づかねば、安定と見なす。安定ではないのだ。一時的に可逆的な成長をしているだけなのだ。死にたい気持ちに強い瞬間があって、弱い瞬間がある。それだけなのに、さも自殺なんかを恐れるような小心者だと言いたげな書き方をしている。俺はね、どんな些細な自傷でもタナトスに則って行っている。力や知恵がほんの少し、またはかなり、足りないだけ。些細な傷をつけて死ぬ死ぬと、本気で喚いてるだけなんです。馬鹿が死のうと二階から飛び降りる時、馬鹿には自殺への覚悟が自殺既遂の人々と同じくらい、もしくはそれ以上にあったはずなのだ。自分はそういう性質を持っていると信じている。

 ここ数年、何回自殺企図と思われたか、数えられない。人の他人の死への関心や感情が、自殺志願者を遠ざけている。迷惑とみなしている。自殺は何も泥をひっかけようって話ではない。自殺はただぐずぐずになった地面として存在して、そこを通ろうと言う人を不快にするだけなのだ。医者への恨みつらみを書こうと思ったが、職業が精神科の医者というだけで、本来迷惑に感じない距離の人の自殺の近くにいなければならないというのは大変だろう。俺を遠ざけるのはわかる。わかるだけに辛い。なんの抗議もできない。反論はない。ただ自分から遠ざかる人を見ているだけ。自殺がエモーショナルなものでなかったら、人々はより暖かかったのではないかとも思える。人の感情を揺さぶらなければ自殺は嫌われていなかったのではないか。色んな仮説を立てては自分によりよい世界を空想するだけ。