反日常系

日常派

日記

 十六時に病棟の鍵がかかる。まあ、いつもかかってて、許可制で外に出るのだけれど、その許可も取れなくなる。いつも、この鍵がかかると安心する。今日は余計な飲食や飲酒をしなかった。今日は過量服薬しなかった。いろんなことが禁止されることで一日が確定するのが何とも言えず嬉しい。明日は退院である。明日の今頃はドアの向こうから聞こえる奇声や泣き声も遠ざかり、ギターも本もある文化的な暮らしができる。しかし、怖くて仕方ない。眠気が来るまで一日は確定しない。ヘンリー・ミラーの本に『人間が望む一切のことはといえば、結局現在を忘れるということなのだ……』と書いてあった。真理である。忘れたくない現在の存在を今、俺は信じることができない(この、俺という一人称にはいつまで経っても慣れることができない)。

 明日はドラッグストアに行かないといいな。母親がかつての主治医(俺を全く正しい理由で病院から締め出してくださいました)のアドバイスを鵜呑みにして毎日連絡を取ってくる。なるべく親にラリっているところは見せたくない。俺はね、こう見えて孝行者なんですよ。俺という一人称の口語っぽさがこういう書き方にさせやがる! ともかく、俺が死のうとするのはね、人々を悲しませても、人々の手を煩わせたくないからなのだ。人々の手を借りるのが怖くて仕方ない。太宰治の『斜陽』で直治が同じようなことを言っていて驚いた。文豪とは間違い探しみたいに隠れて存在してる普遍的真理を、言葉によって言い当てる者を言うのだろう。文章家に、何を、当たり前な、という批判をしてもそれは全くの無為だ。間違い探しの例えを持ってくるなら、間違いを言い当てた人に「それはね、ずっと前から存在していましたよ」と言うようなものだ。ズレきっている。

 何の話だったか? 全般、俺は恐れていると言う話しかしていない。飽きることはない醜悪な自画像のレイヤー! キャンバスではなく、絵の具でべたべたになった両手を成果と勘違いしている。こういった無為がさかしまに評価されたりはしないだろうかね。アウトサイダーという便利な言葉は金を借りようと思うとすっと姿を消す悪友のようだ。人の手を煩わせることができないという話をした後に、こういった格好つけた比喩をすると、一体何を気の利いた装飾だと思っているかがあらわにされるようで恥ずかしい。それでは。