反日常系

日常派

考えられなくなること

 冬の影が朝方と夜に伸びて、暖房をつけた。本を読んでも、アニメを見ても、ギターを弾いても、鬱になって横たわっている瞬間には勝てない。昔に比べて活動的な人間になっても自己嫌悪が心臓をつつく。慣れてしまえばすべてが当たり前になって、嫌いになっていく。横たわって、壁や天井を眺めている瞬間が素晴らしく思える。血を流してゴミ箱に溜めていく元気が今の俺にはない。友達と遊ぶ予定を入れた。それだけがやけに待ち遠しく、その分だけ何もない二十四時間が引き延ばされた。

 煙草の煙と口から吐き出す冬の吐息が混じり合ってわからなくなる。疲れた顔して、その分だけ疲れてもいない体が軽くなった体重より重く感じた。煙草を吸ってばかりいる。何も考えずに煙が喉に当たるのを待っている。何も考えていない。鬱の何も考えられないのとも違って、能動的に思考を止めようと努める。酷くくたびれてしまった。何も喜ばしいことはない。上限まで分割にしたクレジットカードがコーヒーの汚れをつけて、将来を睨んでいる。灰皿に長い灰と寿命を落として、管に繋がれた祖父母のことを思い返す。煙の苦さに辟易してるのか、様々なことを苦々しく思っているのか、自分にはてんでわからないふりをした。疲れた。死にたいわけでもない。宇宙を流されるまま流れて遠い星を見ている気持ちになる。結局は何事も真に迫る物事に思えないのが問題だった。これは離人感なのか。他人事が自分の周りで起こり、他人が右から左に生活をこなしているように思える。こなしているなんて上等すぎたかもしれない。耳を塞いでしゃがみこみ、すべてが去っていくのを待っている方が近いかもしれない。

 時間をやりすごすために時間をやりすごしている時、心に宿るのはいつだって自己嫌悪だ。先延ばし以下の、先に何もないのが見える。退屈が自己嫌悪を弄ぶので、悪い方向に刺激されて落ち込む。何も考えられない方がマシ。できない方がやらないの方より良い。考える力への嫌悪がいつだってある。咳止めに手を伸ばそうとするのはいつもその思想故だ。違法に手を染めようと思ったことはない。チャットアプリで覚せい剤を使用する人と話した。誇らしく薬物の博物館みたいな顔してるクズなだけの薄らボケになるのはごめんだ。自発的に考えられなくなる能力が欲しい。ジャンキーはみな働く。ぼんやりするために意識的に労働をこなす。そこだけは羨ましい。意味もなく時間を過ごしながら、意味のあるということに恐怖を感じている。さらにはその先の意味のあることに意識的でなくなることに脅えている。来年のことを言えば鬼に笑われる。確実な人の想像の範囲内はすべて今のことだけなのに、未来を想像して嫌になる。考えないこと。それに尽きる。考えないようにするには考えられなくなる以外の手段が思いつかない。考えたくないのも愚かさだが、考えられないという愚かさではない。手持ちのものはいつも選び取りたかったものではないように思える。隣の芝は青く、隣の愚かさは輝いて見えた。