反日常系

日常派

無題

 死とはなにか、それをつぶさに鑑定し、言葉をあてがい、これではないあれでもないと言葉を放り投げては他の言葉を引っ掴み、ほとんど初歩の神学、もしくは阿呆の使う「哲学的」という言葉の指す範疇で大袈裟に悩んでは頭が鉛になったように感じる。死について考える時と死にたいと思う時は似ているようで違う。当たり前の範囲で、死とは喪失である。しかし、俺が死にたいと思っている時、頭はその喪失と必ずしも結びつくわけではない。

 

 煙草がすーーっとその身体を短くしている音が聞こえる気がする。その音は一秒の中に零コンマ一秒を十個並べ立てて、さらにはそれを十分割して、それをさらに……といったゼノンの矢的パラドックスを肉眼では見えないように構築した、時計の秒針の音にとてもよく似ている。止まることない秒針は今まで使われてきた一秒と一秒の間のカチコチとした停留を分割して、石臼のように滑らかにする。

 すべてが止まることなく動き続けている。血は心臓の鼓動とその次の鼓動の間も流れ、すべては泳ぎを忘れることができない魚のように持続している。小さな流れ、そういう瑣末に意識を集中させる時、前提として当たり前に大きな流れがある。偏執狂的に考えれば、流れがあり、その何倍か何分の一の流れが無限にある。小さな流れに問題があるように思えると、大きな流れを忘れようと刻苦する。その戦いには何回か勝利したが、大きな忘却を蝶のように捕まえようと追いかけていると、いつも足元が愚かの範囲内に入り込んでしまう。つまり、大きな流れを忘れるということは視野搾取という形でしか結実せず、それによって小石に躓いたり、身体を擦りむいたりして血を流して、痛みが引き起こされる。

 生きている。そういう大きな流れがある。小さな現実に苦悩して、生きるということを忘れることは三人称視点では考えもつかない苦痛を、一人称視点では引き起こす。この点が、病人と医者の間に横たわる、耐え難い無理解を作っているように思える。一日一日、もしくは一分一秒を無為に過ごしていると、そのことで頭がいっぱいになり、一秒の質の悪さからの逃避として死にたくなる。生きることを蔑ろにして、現実的な小さな流れに気を取られて底なし沼に嵌ってしまう。しかも本人は底なし沼に嵌っていることにも気づかず窒息してしまう。死にたいと思っている時、俺は死が何かとは考えもせず、生とは何かとも考えず、ただ本当に理解のされない小さな事物に偏執していることが多い気がする。