反日常系

日常派

日記

 喫茶店にいる。俺はだいたいはコーヒーと本、そして「ここ」ではないどこかに行きたいと思う時に「ここ」ではないと感じられる場所さえあれば幸せになれる。特別じゃない場所はどこであろうと「ここ」である。家から近い喫茶店でも、条件さえあれば「どこか」にいると感じる。それだけで大体ハッピーだ。

 家に根を下ろしてぼんやりしているのは得意ではない。外に行ってぼんやりしているほうが得意だ。はっきりしていることはどちらにしても得意ではない。本は最も安くトリップできる物質だ。それは安いが故に依存性がない。ドラッグには快楽と飢えを往復することが必要とされる。故に本はドラッグではない。

 本を閉じ、中身を頭の中で反芻していると、頭は本を読み切ってもいないのに次に買う本をリストアップしている。本を買う時、財布の中の小銭分区切られた万能感が頭を支配する。何もかも理解できそうだと思う。本を読むとそれが勘違いだったとわかるが、中身にのめりこんでいてその敗北感で自分を傷つける猶予はない。それなりに美しい作家が理解しにくくて中身のない作品を書けば、マゾヒストたちは好んで買うのではないだろうかとウケない冗談のようなことを考える。

 コーヒーを飲み、窓から外を眺める。黒い雲が未来をサブリミナル効果のように示唆する。鞄の中身を見て傘を持ってきていないことに顔を顰めつつ(傘を持ち歩いていることなんてほとんどないが)、注文票を手に取ってレジへと向かった。幸せな時間の終わりだ。思えば大人になって随分幸せになりやすくなったと思う。俺にとっての幸せとは、普段得られない満足を一時的に手にすることだ。そのせいか、家は不満の暗喩のように思えて好きになれない。煙草や酒が一時的にしか効果的でないことが救いだ。俺は絶対ドラッグにハマる性分だ。だから俺はドラッグはやらない。安くてどこでも手に入ればやるが。不満を発見すること、それは幸福にも不幸にもなりえる。不幸にならないためにも高い満足には手を出さない。安い充足を幸せに感じる。それを恥ずかしげもなく幸せだと思うことにも幸せを感じる。