反日常系

日常派

どうしようもない

 やりたいこともなりたいものもない。ふと思い浮かぶのは髪の長かった自分だが、それが回顧なのか自己嫌悪なのかよくわからない。何にせよこれは鬱の症状だと思う。こうしている間にも自分が取り返しのつかない成長をしていることが本当に嫌だ。聴きたい音楽も特にない。ぼんやりしているうちに無駄毛が生えてくる。身体がだんだんと骨ばってくる。

 恋慕を抱く相手もいない。セックスをしたい相手もいない。そもそも俺のちんぽは勃起すらしないしこんな気持ちは詩情ですらない。精神病というのは詩情ですらないということの繰り返しだ。さらには言葉で説得力を持って説明できないということばかりだ。それでも、文章を書く夜、いつまでも夜が続けばいいのにと思う。なのに、句読点はナイフをぐいぐいと首元に突きつけてくる。夜中に起きて、昼間は眠っていたい時に限って睡眠薬は効きすぎる。

 何かを生み出すということ自体、ペシミストには向いてないのだ。ペシミズムと憂鬱は全くの別物(と言うより違う分野の言葉と言ったほうがいいだろう)だが、鬱になると憧れも何もなくなる。憧れのない創作は自己満足に終始するか、アートセラピー的にしかならない。あれだけ好きだったボビー・ギレスピーの画像を見ても何も感じない。ブコウスキーの文庫本も、ペイヴメントのCDも。確かにあれになりたかったはずなのに。露光をミスった写真のように、地面に細長く伸びた影のように、見慣れたものが少し違う形で存在するように思える。

 物を買ってお金をなくすことがないから鬱もいいかもね。ははは。悲惨な現状のジョークと笑い声が発した瞬間に地面に落ちてもろく砕けた。なりたい自分が欲しい。まずはそうしていかないと何も出来ないと思う。昔の自分は可愛かったな。写真は都合のいいものしか残ってないからそう思うのかもしれないけれど。写真は残酷だ。優しいから。優しさはいつも何かを勘違いして俺たちの神経を逆撫でしてくる。今は自撮りをする気もないな。写真は残酷だ。正直だから。と、言った一般論で締めさせていただきます。ここまで読んでくださってありがとうございした。