反日常系

日常派

 暇なので自殺配信ばかり見ている。死を決意した人間が想定した以上に明るい口調で話すのはもう誰もその気持ちを変えられないからなのだろうか。人に影響されない心境はからっ風の吹き荒ぶ砂漠を思い起こさせる。それでも人との繋がりを求めて配信してしまうということに、社会的生物である人間の悲しさを見出してしまう。

 今では懐かしいが、自分もしょっちゅう自殺未遂をしていた時期がある。懐かしいというのは今からかなり距離があるから思えることで、距離がある故に輪郭はぼやけて鮮明にその時のことを直視することは出来ない。

 エロゲが盛り上がっていた時期に、死や狂気をテーマにしたアングラエロゲが持て囃されていたことがあった。市場に余裕があった故の余剰の産物で、今では生まれないものだろう。『ジサツのための101の方法』というエロゲに「飛び降り自殺した人は、地面にぶつかる一ミリ前まで生きてるんだよね? 一秒前まで、生きてるって意味では飛び降りてない人と同じ。でも、違う。生きてるけど、もう確実に死んでるの」と言うセリフがある。このエロゲはプレイしたことがないので、どういう背景で発された物なのはわからない。この物言いには納得させられるところがあるが、自殺しようと思っていたのに運良く(悪く?)生き延びてしまった俺はなんとなく反論したいところもある。糞くだらないパラドクスとして、そう言えるのなら二秒前でも死んでいるし、n+1を繰り返せば自殺したいと思っている人は全員死んでいることになる。それにトラックに撥ねられる一秒前の人は死んでいることになるのか? 生きている人間は全員死ぬn秒前なのではないか? 全員確実に死んでいるのではないか? と屁理屈の範囲で思う。死のうと思っても、確実じゃない方法で死のうとすれば、確実に死んでいたのに生き返ることはよくある。地面にぶつかる一秒前から死んでいようが、当たりどころが良ければ(悪ければ?)実際には死なない。生き死には結局のところ運である。確実に死んでいる生者などいない。死んだ人間を死ぬ一秒前から死んでいるとするのは単に結果から逆算した運命論だし、トートロジーに過ぎないようにすら思える。

 そもそも、死にたいと思っている程度で他者と違っているということ自体が大きな間違いなのかもしれない。死んだ人間という前提で配信を見るから人と違ったように思えるだけなのかもしれない。精神病院には飛び降りても死ななかった人が大勢いる。みんな気が違って、みんなだめ。生きている人間の気の狂い方は格好悪く見えて、死んだ人間の気の狂い方は格好良く見えるだけなのだろう。運の良し悪しにすぎない生き死にに行き過ぎたバイアスをかけるのはやめる。運が悪いだけで格好いいとされるなんて狡すぎる。