反日常系

日常派

無題

 死のうとは思ってないが、死にたいと思うことは自分の中の様々な矛盾を整合性あるものへと変えてくれる魔法のような物なので、ただぼんやりと死にたいと考えている。まともになりたいくせにまともになるのが怖くて仕方ない。このままじゃダメだとわかっているのにこのままの他何にもなれやしない。ここじゃないどこかへと行きたいのにここから立ち去ろうともせず、ここへと帰ってきてしまう。死にたいと考えれば矛盾を自覚しているのだと認識することが出来るし、このままではいけないと考えていることが切実なことだと思える。本当はずっとこのままでいいのかもしれない。何もしたくないのかもしれない。何物かになるよりも何者にもなれないと嘆き続けたいのかもしれない。そんなことは許されないから希死念慮を言い訳にして誤魔化しているのだと思う。

 辛くなると5chのメンタルサロン板を見る。傷の舐め合いの馴れ合いでレスが続き、「生きろ」なんてレスがあると決まってそれは攻撃されている。住民たちは誰にも愛されなかった野良犬の姿勢で、反抗するなんて考えついてもいないが、絶対ではない優しさへの反感を抱えて睨んでいる。一時的に撫でてもらえても、明日もその優しさを享受できるとは限らない。いつかは誰かが助けてくれるのではないか、飼い犬になって幸せな一生に舵を切ることが出来るのではないかと考えてしまうせいで一瞬の優しささえ傷に染みる。辛くなるのは自分の甘さ故だ。期待する者に救いは来ない。「生きろ」と言う人は自分の電車が遅れるのが嫌なだけだろう。そうでなければ、本当に生を手放しに賛成している人だ。どちらにしろ人を一人でも救おうとしている訳ではない。「生きろ」なんて言うのは言うことによって救われたい人だけだ。

 まあ、本気で死ぬ気もないから、どんなポジティブな言葉を吐かれてもヘラヘラしている。誰にも理解されないとは思わない。理解されるほどの中身がないと思う。どんなに酷い現実でも、ほぼ反射で辛くなったり落ち込んだりするだけだ。現実を直視したり、思案している訳ではなく、思考停止の行き着く先として死にたいと思う。脳のその部分以外を使っていることはほとんどない。この直通回路は酷使され、むしろ強靭に鍛え抜かれている。言葉やメロディーになるグラデーションのある憂鬱を単一な希死念慮に変えることで生き延びている。何もないから本当に死んだ方が幾分かマシかもしれない。