反日常系

日常派

育ちが悪い。血が悪い

 許せなかったことを許さない若さも、何が許せなかったのかを覚える記憶力もなくなって、大体のことは許せるようになってきた。大人になるにつれて、若い頃に大人に要していた理性やそれに伴う行動の理由が、大人になるからといって獲得出来る訳ではないこともわかってきた。されたことを許せるというより何をされていたのかを忘れただけなんだろう。それか怒る気力をなくしたか。それは若い頃からずっとか。許しにも似た呆れがやってくる。でも、「戻れるならいつに戻りたい?」なんていう他愛もない会話初級講座みたいな話題になると口をへの字に曲げて目を瞑りながら頭の中をひっかき回し、「戻りたい瞬間なんてない」という結論に達する。そういう答えを出すと、「さぞ今が楽しくて仕方ないんだろう」と思われることもあるが、そんな偏見に打ち勝つために言っておきたい。常に辛くて仕方がないなら、わざわざ若い方がマシと言うだけで苦痛をリプレイしたくはないだけだ。今のところ、辛い過去は常に親と共にある。親は今よりもっと強かったし、家庭は長男(俺である)なしで回せると思っていた。

 説明するには長くなるし、空気や雰囲気で嫌と直感させられる要因は言葉にしにくいから何がそんなに嫌だったかを伝えられないのが歯がゆい。ボコボコに殴られることもそんなにはなかった(そもそも中三の時に父親に喧嘩で勝ってからは喧嘩をすることはなくなった。俺の考えでは勝てる人間に勝つのはただの暴力だし、父親は金銭面で俺をいたぶることに決めたからだ)。一番嫌だったのは両親の不仲だった。父親は俺に母親の悪口を吹き込み、母親は俺に父親の愚痴を吐き出した。家族団欒の場ともなると、両親の仲を取り持ち、どちらの味方にも敵にもならないように会話を回すのに必死だった。自分と二人になると、父親はそんなに喋らなかったが、母親はまあまあ喋ったので、父親の悪い所をよく吹き込まれた。父方の祖父母の知能の低さだとか、叔母たちの育ちの悪さだとか、彼らの社会的地位の低さだとか。「(彼らは)育ちが悪い。血が悪い」とは母親の口癖だったが、それを血を受け継いだ息子に言い聞かす理由が今でもわからない。

 今も両親は仲が悪い。父親は疾病から来る弱りで母親を頼りきっているので母親のことが嫌いかはわからないが、母親は今でも父親の一挙手一投足、そこから来る育ちの表れが嫌いで仕方ないようだ。今日、一番心を締め付けられたのは、「父親がご飯を待つ時に正座して膝の上に手を置くのが大嫌いだ。おそらくそういう育ちなんだから仕方ないけど」という言葉を聞いた瞬間だ。父親の家庭は貧困と暴力の伴う強い家父長制で、本人はそう思わないかもしれないが、虐待に近い教育があった(まあ、形は違えど母親も似たようなものなのだが)。「そういう風に待たないと殴られたんだろう」と母親は続けた。殴られ慣れた人が他人の拳を見ると手で自分を守ろうとするのにも似た癖が、さらに人を苛つかせているのかと思うと、自分も何かが人の癇に障っているんだろうと思った。良い家庭で育った訳でもない、悪い血の流れた人間なのだから。両親も、仲が良い時があり、愛し合っていた頃もあったのだろう。人は愛を真に誓うことはできるのだろうか? なんの関係もないただの他人にずっと好かれることなど可能なのだろうか? 俺には到底不可能なことのように思える。