反日常系

日常派

髪を切りました

 インコのような顔で外を見る度に看護師が「タバコ外出ですか?」と聞いてくる。俺は煙草を喫まないと何度も言っているのに。おそらく、ヤニ切れの呆けた顔に俺の顔は似ているのだろうと思う。

 俺、という一人称に背伸びした少年の気持ちになる。俺という一人称はメンソレータムの薬用リップクリームみたいな、そういうツンとした幼さがある気がする。なぜ、俺は俺になったか? こういうことを書けば書くほど尻尾を引きずるように駄作を駄作たらしめている気がする。

 俺は影を嫌うように自己を嫌い、他者を嫌い、好き嫌いで言ったら嫌いの方が二十倍くらい多い。相手の眼中に入っていないのに、嫌悪や敵意を胸でいっぱいにして疲れる。その中でもずっと嫌いなのが、男性性である。男性が嫌いなわけではない。男性らしい男性が嫌いなわけではない。男らしさや男性の特徴を自分が纏うことを考えると、なんとも言えず嫌な気分になる。しかし、女性性を獲得することに努めたここ数年を通して至った境地とは、女性性に飽きたということである。正直、セクシャリティは曖昧なので、どちらにつくにしても自己嫌悪は変わらないということだった。女性性にも慣れ、女性かと思われることが誉め言葉でもなんでもなく思われ、ただただ飽きてしまった。女性性すら自己の中に入れば嫌悪の対象だった。

 簡単に自己を変えようと何回目かの決意をした。簡単なことから始めようとするのは勉強の前に掃除をする癖が抜けないせいだ。決意ができたのは、人と関わりがないからだと思う。ぼくの複雑というより曖昧なセクシャリティと内面は人に「女性になりたいんだね」とか、そういう捉えられ方をすることが多かった。そう言われる度、なんとも言えず肩身の狭い気持ちになり、自分の言葉は他者の脳内にない概念を理解させ、その中に概念を作る能力がないのだと思った。でも、今はさして関わりのある人がいない。というか、自分を女性、もしくは女性になりたい人と認識する人との関わりがないので、変えるなら今のうちだなと。

 誕生日になり、髪を切りました。ブログであまり髪を切りましたと言ったことがない気がする。それもそのはず、この数年ほとんど髪の毛を切っていない。ぼさぼさに伸び放題な髪の毛が視界を覆うので、いっそのこと、という過剰の気持ちで、失恋二回分くらいの髪の毛を切ってきた。そして俺は二十五歳になった。未だに男性性へは嫌悪がある。だから脱毛器を買おうと思う(こんな生活のことは言わない方が名文らしく思われるようである)。どこでもなく、自分でもないところを探し回って、結局は自分を愛せる場所を見つけられたらと思う。青い鳥のように、最初の場所をおさらいしてみることが答えになるのかもしれない。ぼくを俺にしたり、髪を切ったり、そういうことが大きな右折で、円を書くように元に戻っても、無駄なことは無駄なことを理解するために必要なのだ。俺思うゆえに俺あり。格好つけて、とげとげしくて、小型犬みたいな一人称だな。これから吠えよう。ドントトラストオーバーサーティーなんて言えるうちに。