反日常系

日常派

日記

 二十六歳になった。自嘲的にカート・コバーンジミ・ヘンドリックスを例に出すのもあまりに手垢がつきすぎてくだらなく思えて何も言えなくなった。二十六歳となると友人である森が俺と会った時の年齢で、あの時さっと奢ってくれた姿にはまだ近づけていない。それから数年来の付き合いがあり、その他諸々の友人が増えたり減ったり色々あった。

 その中には色々な職業の人々がいて、もちろんその中に春を売る職業の人もいた。年上の友人たちがずるずると春を売っていた年齢に俺はなった(もしくはもう超えてしまった)。売るほどの春は俺にはないし、買われるほどの春も俺にはない。そろそろ東京にいるのもやめようと考えていると、買う人がいるなら春を売ってみたいという気持ちになってくる。一番、春の売人が嫌うのはそういう考えを持って何もしていない人だというのはわかっているが。まあ、自己肯定感の有無に関わらず冷静な客観視として自分に価値がないことくらいわかる。髪が長い時ならまだしも、今の俺は髪が短いし、声も男だ。手首と首には躁鬱病の足跡が残っているし、タトゥーも何個かある。自己肯定感のためにも、自分の存在プラスアルファに金が払われるという経験をしてみたい。顔や裸体で金を稼ぎたい。

 どうやっても自分を自分らしさとかいう胡散臭い形容でそのまま受容することができない。今以外の何かに恋焦がれては今を唾棄してしまう。こうなれたらいいと思う姿に近づいても近づいてもたどり着くことはできない。ゼノンの矢のパラドックスみたいに、たどり着こうと前に進んでいることは確からしいのに、そうとは思えずに止まってしまっているように思える。変わろうとしているのに変われていなくてほとほと嫌になる。

 

 嫌な思考から抜け出そうと、酒を飲んでしまう。酒を飲んでも正確さを欠いた自己嫌悪に引き金を引かれるだけなのだが。そして、薬を飲んでも、酒を飲んでも、薬を酒で飲んでも眠れない夜が来る。空き缶をこたつの上に並べて、ただ飲酒した疲れが身を包むのに任せる。夜中は「もう少しで眠れるのではないか」との希望が、映画を観たり本を読んだりしようというやる気を奪っていく。何もしたくないが、暇。そうしてスマホを弄っては動かないタイムラインと朝に近づいていく時計を見てうんざりする。九パーセントが体の中のパーセンテージを塗り替えていく。思考の中で九パーセントが百パーセントになることを待ち遠しく思っている。

 書きたいと思うことなどないのだ。原稿用紙のマスに書くよりマスをかいてたほうがまだマシだ。そもそも文章もオナニーと同じだと考えている。時々無性にかきたくなるのだが、書きたいと思う文章がない時はエロサイトを見ているのにペニスが一向に勃起しないような気分になる。

 飽きもせず小説を書いてみたりしているのだが、書き出しを思いつく時がピークで、あとはリズムに沿って言葉を置いているだけのような気がする。展開よりも瞬間の方が好きだ。展開に対して瞬間とは現状維持である。

 肺を汚して肝臓を痛めて生きている。歩くことは靴底をすり減らすことだし、生きることは全て失っていくということに還元される。歯医者に行って歯を削られた。そのくせ痛みはなくならず、消耗させられる。すり減らす前の記録として、誰かに抱かれたいとふと思った。それと同時に酷い性嫌悪も自己嫌悪と同じパレットで混じりあっている。