反日常系

日常派

日記と注釈と日記

 酒を飲んで酔っ払っている。ふわふわと胸が熱くなる。酒自体は好きではない。味が好みではない。酩酊に近づくための手段として、好きでもないのに酒を飲んでいる。キリスト教徒が十字を切るという行為自体が好きな訳ではないように、俺は酒が好きではない。大嫌いだ。コーラの味でアルコールが九パーセントのものが出たら真っ先にそれを買うのに。味が酒の味だから俺はこんなつまらないものをつまらない顔して飲んでいるのだ。くそったれ。

 酒を飲んでもオーバードーズに比べればつまらない酩酊だ。オーバードーズしたいと思うけれど、わざわざ救急に担ぎ込まれることを考えると気が進まない。おもちゃを取り上げられた子供みたいな気分だ。

 シドとナンシーの映画を見た。手首を切ることがパンクスの間で流行っていたと聞いて、俺も一端のパンクスになった気持ちになる。今手首を切ろうとはつゆにも思わないが。手首を切っても死ぬ確率は数パーセントでしかないと読んだことがある。そしてそれに勇気づけられて高校生の頃初めてリストカットをしたことがある。消えない白い線やピンクのケロイドを携えて生きていくことがパンクと結び付けられるのは良いような、悪いような、そして、どちらとも捉えられない気持ちがある。それはパンクがもう寿命で死んでいく世代の(今の若者にとっては唾棄すべき)ユースカルチャーであるからだ。シド・ヴィシャスに気持ちを重ねても、あっという間に歳をとる。消せない傷が意図せずとも時代遅れの不健康を意味するのはとても悲しい。それと同時に時代遅れになるということは、常に過去を参照する新しい若者に、存在しないノスタルジアのように新しい価値が認められるということだとも思う。善し悪しどちらにしろ行為主体の意思には関係ないのだが。

 

 これまで、そしてここから先は気分が落ちていた時に書いていた文章を改訂なり削除なりをしてそれなりの文字数を有するように形を整えた物なのだが、かなり直接的な表現が多くて驚いた。叫びとは正気を保っていて初めて他者に伝わる音になるのであって、そこに狂人なり異常な状態にある人なりの孤独の要因がある。「死にたい」にポエジーも共感性もなく、そう書かれた本やツイートを見る度に異常な状態が素晴らしいものを生み出すというのは(文章媒体がある特定の感情に訴えるかどうかに限っては)ありえないと思わずにはいられない。

 誤字の多さにも辟易させられた。俺は無意識の誤りがとても多い人間なので、フロイトの「錯誤行為とはそうしたい意思の表れ」という意見にはとてもじゃないが賛成できない。無意識下が存在しないとでも言いたげなその意見は、人間を神と同一視したいようにすら思える。

 

 注釈を挟んで、以下、気分が落ちていた時に書いた文章である。

 

 ただ、生きることに飽きた。何も出来ないのだから、やれることはやり尽くしただろうと思う。これから自分が労働に精を出せるかというとそんな感じはしない。生きているだけで人に迷惑をかけている。

 俺の才能は友人にだけは見えて、友人以外には見えないらしい。そんな才能はいらない。女のヒモになる才能が欲しかった。好意を受けることができ、それを利己的に処理できる能力が。一人だけで生きるなんて無理だ。誰かに補助してもらいたい。それが無理なら自殺する能力が欲しかった。