反日常系

日常派

虚無と憂鬱

 ギターを持ってもドドレドドレドとメロディー以下の人差し指と薬指の運動しかすることがなく、何も思いつかない。枯れるほどの源泉があったとは思えないが、今となってはなにかしらが枯れたのだろうという諦観がある。何を素晴らしいと思い、何を美しいと思ったかすらも、今でははっきりとしたものはいえない。親鳥が雛の口元に虫をつきつけるようにこれが美しいのだと示してほしい。

 ギターも音楽も楽しいと思えないし、やめたほうがいいのだろう。バンドのメンバーは抜けるし、「ライブをやらないのならやる意味がない」と独りごちるメンバーもいるし、俺はライブをやる気がない。もう一人は仕事と私生活の充実で忙しそうにしている。何も、彼らを悪と決めつけて被害者ぶろうとしているのではない。全ては俺のバイタリティ、リーダーシップの欠如に端を発している。何もやる気がしない。これが憂鬱のせいなのか、自分のせいなのかはわからない。

 やりたいことがないのなら、仕事でもした方がいい。そんなことはわかっているが、なににつけても臆病な性根が、上げる腰を重くしている。聞き慣れた曲を新しい発見もなく聞き流している。発見できるディテールに関心を払うことなく、漠然を漠然としたままデジャヴだと繰り返している。

 また、憂鬱がその日の気分でどこかへふらっと出かけていくことがあるのだろうか。ふとギターを弾いて思いつくことがあるのだろうか。憂鬱の常として、これが永遠に続くとしか思えない。まだそんな憂鬱が酷くなっていないので、創造は出来なくとも消費は出来るのだが、美味しいとも感じず消費を続けていくことはひどく醜く思えて、自責の念に駆られる。

 死にたいとは思う。本気ではない。それを実行するくらいの強さはないし、わざわざ死にたいとのたまって配慮されたくもない(俺はそうしないというだけの話であって、死にたいと言うことに対する批判ではない)。負の感情の濃度を測るぐらいには負の感情と付き合いが長い。何をすれば気分が晴れるのかは全く想像もつかないが。今となってはユートピアと思う場所もない。そこにいるだけで安定し、前向きになるような場所は想像がつかない。以前までは病棟がユートピアだったのだが、可愛がられる年齢も過ぎ、コミュニケーション能力の低下も相まって、つまらなく感じる。誰にも愛されることはない。悪い占いのような言葉が実感として脳裏にこびりついている。誰かしらに愛されればそれなりに現世を居場所だと思うことが出来るだろうか。愛されたいと思うが、愛を維持することの面倒くささと愛されることでの肯定を天秤にかけた時、考えなしに面倒くさくない方向に逃げてしまうことは容易に想像出来る。悲しいことに、この歳では、自分の現在位置は全て自分の行いによって定められたものだ。