反日常系

日常派

墓に唾をかけろ

 煙草を買いに行くついでに書店に行く。置いてある本は変わりもしないくせに無駄に模様替えされた書店には、階段下のハンバーガー屋の臭いが流れ込んできて、ページに臭いが移るのではないかとの危惧で顔も浮かばない誰かに殺意が湧いた。買っては売ってを繰り返している本を何度目か買いに来たが、立ち読みすると化粧の上手い女のすっぴんを見ている気分になり、何も買わずに書店を後にする。

 コンビニに行く。歳をとったつもりも、身長も中身も成長してもいないのに、なぜ俺は「二十歳以上です」のボタンを押しているのだろう? 年月に化けた狐につままれた気分になりながら、なぜ俺は二十歳以下に見られず、確認もされないのだろうとせせこましく思う。変わっていないのは気持ちだけで、俺の顔には年相応の何かが備わってしまっているのだろう。

 家に帰る。美味くもない、好きなタール値の中で一番マシなセブンスターを吸う。

 酒を飲む。アイスコーヒーと炭酸飲料とアルコールで構成されている俺の身体のその割合を歪に変えていく。アルコールを飲み、煙草を喫むと吐き気が鋭さを増していき、横になった衝撃で胃が揺れて痰の大きさの吐瀉物がせり上がってきて口の中が酸味に支配される。いつもアルコールや躁鬱に人格も魂も勝手に売っぱらわれてしまって、醜態を晒してしまうし、今日もそうなんだろう。

 買おうと思っていた本は、二十五歳前に自死を選んだビブリオフィリアの女性が遺した日記で、嫌いすぎて何回も買い直しては読み直している。信者の多いそいつの名前を出すのは面倒臭いので、あえて名前を出さないが、気心の知れた友人と話す時はそいつの名前に「馬鹿の」を枕詞にして喋る。思想とは生きるという不断の連続をどう戦っていくかで、思想家や思想に触れている人々は自死を選んではいけない。これは禁止ではない。ただ、人によく見られたいならそうすべきではないというだけの話だ。いくらこの世が悪し様に描かれている本だろうが、それは生きるためにどう世界を認識するかの手がかりであり、それを利用することなく死ぬなら、そいつの本に対する向き合い方が間違っているだけの話である。そいつに憧れていた元フォロワーもちゃんとしなくても生きていれば二十五か六だろうが、ちゃんとそいつに憧れて二十五前に死んだのかが気にかかる。歳を取れば夭折したやつなんかに憧れることがほとんどなくなる。俺も来年の誕生日になればカート・コバーンに唾を吐きかけているだろう。脳内のイアン・カーティスシド・ヴィシャスの顔は既に俺の唾でまみれている。しかし、パンクで唾を吐きかけることは愛情表現の一つであることは忘れてはならない。