反日常系

日常派

精神科医に宛てた手紙

一ヶ月ほど前に精神科医に宛てた手紙を、こんな冗長な文章を書いたのに一人に見られて終わるのだと思うとさみしく、公開します。この文章に至るまでの経緯はhttps://freak-tanatra.hateblo.jp/entry/2022/02/15/184201 に詳しく載ってます。

 

 先生と口に出して言ってみる時、最初に舌が触れるのは下の歯の裏側で、それは丁度私の虫歯の黒さの真後ろにあたる。口を閉じ、息を追い出し舌で口内をいっぱいにする。その次は口を横に伸ばしながら開き、その口を閉じる。

 描写は全くそれ自身で意味を成さないが、描写をすること自体は含みを持って何らかの意味に直結する。嘘つきは必ず饒舌で、饒舌もまた、スタートを切ると同時に嘘を身にまとい始める。描写することもないが、描写をしなければ私の文章は上手に離陸することはできない。なんとなく頭によぎったナボコフの名作の冒頭のアイデアを拝借し、発音の気持ちの悪い再現から始めたが、それに意味を問われないことを願わずにはいられない。離陸のための離陸だが、上手くいかずに文章は気恥しさのためダッチロールし始める。蛇行が上手に──そしてたまたま──病跡学のモデルに沿っていることを願うが、ヴァージニア・ウルフを少しでも開けば、完全に病的なそれには適うべくもない。私は意味のない蛇行を続ける。意味がなくとも目的はある。そしてそれが先生の眼前に現れることを切に願わずにはいられない。

 


 先生。勝手に薬を減らされ、その事を追求すると「バレました?」と笑いながら言ったことに関しましては、腹立ちこそはすれど、言葉は憤懣に震え、一向に私の喉からは適当な返答などできない有様ですから、文章を書かせていただきます。私ごときの蛇足にまみれてムカデのようになった文章が博学才穎な先生の視界を通るという、それだけで些か胸がすく思いですので、冗長を目的とした冗長な駄文につきあっていただきます。

 自分の意思は確定もしていないくせに絶対に(福祉という、異論や疑問を差し込むことすら許されぬごく小さい範囲において)正しい仮定の未来に向かって無視されました。これが初めてですが、その正しさによってこれからも踏みにじられていくであろうことは簡単にわかります。そもそも正しさとはその時折の風向きに過ぎないのであって──至極使い古された、そして極論である例を用いて説明すれば──戦時中の日本では米英の兵隊をその銃剣によって刺し殺すことも、共産主義国家がその自立の為に自国民を絞殺することも、どれも正しいのです。これはもちろん極論かつうわごとのような詭弁であることは免れない。ただ、正しい物事を説明する理由が、それが正しいからというのは、あまりにも児戯に等しい。それが私に用いられたのが、「それはそうとしか説明出来ないから」という、論理性を放棄した先生の幼児性による理由か、「こいつ(私)は難しいことはわからないから」という、私を幼児と見たことが原因か。少し頭のぼんやりしている(オブラートに包んだ物言い)私でも、後者であることぐらいはわかります。早とちりしないでいただきたいのは、私は私を幼児扱いしたことに怒髪を逆立て、目を血走らせようとしている訳ではないことです。私は二十六にもなりますから、幼児退行の甘美な味と望まざる幼児扱いへの対応も自然と知っています(大人であるがゆえに!)。幼児扱いされた場合、それを不当だと怒るのは逆に幼児のやることで、適当にやりすごすのが大人です。私もいい加減、悲しいことに──この悲しい気持ちが幼児退行気味の我が国に生まれたことに起因するのか、単に私が退行しているのかはわかりませんが──大人ですので、穏当にやりすごさせていただきます。私は望むらく幼児扱いには金銭、または傾慕を払いたいと思いますし、そういった専門店に通ったこともありますが、望まざる幼児扱いには何も対価として払うべきではないというのが結論です。怒りさえ払うに値しない。そして私は、そうであるとわかっていながら、それをわざわざ無視できない(し、口に出さざるを得ない)という一抹の幼児性を自分の中に発見し、大きく驚く。それにしても、バレないかと思っていたなんて! 児戯であれば偽りでも甘美な装いに身を任せることが出来ますが、説明の不足と看破されないという予想ではてんで事情は違って、それは私の視覚と触覚に対する侮蔑です。私は幼児になりたくはあれど(そしてあなたは今嘲笑の準備として息を吸った)、不具者にはなりたくはないのです。この点において私は憤りたいのですが、憤りすら上手くいけば症例Aとして陳列されることを思うと憤りを越えて呆れてきます(もちろんその医療とそれに携わる福祉にひっかけられて生きている私自身へも呆れています。自嘲すら説明を省こうとは思えないのは単に先生からの防御姿勢ですが)。私は無力感を行使して怒ることはしないでおきます。いや、終ぞ私は怒ることさえ出来なかった、と言った方が正しいでしょう。これが良方に向かっているとされるのか、酷い無力感を問題に取られるのか。後者であることをロボトミー手術を問題にすることの出来た時代の流れに祈るばかりですが、ロボトミー手術すら正しいとされていた西洋医学を考えると前者であるだろうなと諦めてもいます。

 行き場のない気持ちを身を焦がす煙草にやつし、灰皿に花占いの逆再生のように一本ずつ飾っていく。煙草と乳房はどちらも吸うものだから、と、言葉遊び以下のアナロジーで幼児退行を揶揄される喫煙。

 


 先生が他の病院へ行かれて、私が先生と呼ぶ人が知らない、真面目と形容される男に変わることには些かならずがっかりしないわけにはいかない。先生との信頼関係──先生から私に向かう信頼がベンゾジアゼピンを処方することが出来ない程度のものだとは理解していても──は、別の人と一から築き上げるには少々、いや、音を上げるほど大変なものです。それが失われること、それに加えて、真面目とは融通のきかないことの言い換えである事を考慮せずにはいられない。無力感故、病気が治るとは到底思えず、他者にこの苦しみが理解されるとも思えない。苦しみに至っては真偽さえ精査されるのでしょう。結果、私が医療に求めているのは優しく首を締めてくれることに他ならない。いや、治らないからという理由でさえないかもしれません。私はブラック・ジャックドクター・キリコが同時に現れたなら、治る確約があったとしてもドクター・キリコを選ぶかもしれない。それはさておき、私は私の首を絞めるのが先生ではないことに悲しさを感じます。先生が首を優しく締めようとは露程にも思っていないとはわかっていても。これは親愛の度合いなのです。私が知らない新任の腕を見て想像することは彼がいたずらに強い力を込めて私の喉仏を破壊することでしょう。信頼なしには私は首を絞めやすいように少し身体を浮かすことも出来ないし、向こうも私のことを知らなかったら苦しみの度合いすら読み取れないのです。先生には、そのくらいの信頼があったというだけです。語義通りに取らなくて結構です。そして、語義通りに首を締めてくれるとしたら、それもまた結構。

 後任に恐れているのは、こういった諧謔(そう思っているのは私だけかもしれませんが)が不真面目なものとして指摘されること、そして私への無理解です。「あなたはきちがいのまねをしているだけ」と言われたらすばらしい日本の戦争のように自殺するしかなく(高橋源一郎ジョン・レノン対火星人』)、そうされた場合と喉仏を破壊されることは同義であると後任にはわかっていて欲しいものです。

 バタイユを借りれば、私は『転覆したい』(『生きることをやめながら生きたいと欲する欲望であり、生きることをやめずに死にたいと欲する欲望』)だけなのかもしれません。それがエロティシズムに到達するのか、そのエロティシズムはリビドーとはイコールで繋がらない観念で、リビドーはホルモン投与でほとんど私には残されていませんが、絶えず死(それが部分的なものか、絶対的なものかという区別はこの際捨てておきます)への欲求に魅了されているということは私にエロティシズムは残されているのかもしれません。そういった、狂気と正気とを対極にする軸とは別の評価軸をこういった場に持ち込むことに遠慮を感じないわけではありませんが、散文を超えた乱文の筆の赴くままに書こうと思います。

 駄文をただただ書き、その文章を読んでもらいたいという欲求は、私にとって全てを知ってもらいたいという幼児性以上に、コミュニケーションの方向性を持ったコミュニケーション以上の、存在の連続性への回帰欲求であります。存在の連続性へという点では死やそれを伴う供儀に似ていますが、文章を書くことがそれらの代替となるのはあまりにも健康的で可愛らしく、文章を書いている自分を、幽体離脱した自分が見ているという想像をやめることができない限りにおいて、苦笑を禁じ得ません。文章に性行為以上の融解の効果があると、私は好色ではない故に信じていますし、そう書くことによって少しでも露悪な脱線をしようと、寂寞とした頭の中をひっくり返しては意味の繋がるように単語を組み合わせているだけなのです。

 露悪! そう、露悪しか私には残されていないのです。それを目的として文章を書けど、全く露悪的な意味を成さないこの文章は、私の小市民的善良さを表していて、幽体離脱の自分を大笑いさせて止まないのです。嫌われたいという気持ちは露ほどもありませんが、私の知らないところで顔を顰められたいという気持ちもないとは嘘でも言えません。この気持ちは反撃をしてやったと思い込み、すっきりしたいという気持ちではありません。先生が他の病院に行くことに対する、行き場も正論もない感情がもたらす苛立ちが、出口を見つけて押しかけているというのが正しいでしょう。私は癇癪を起こしている。自分への客観視が失われた時点で、この文章は私の愛する諸作家たち(ナサニエル・ウェストやジョセフ=ヘラー等)のようなユーモアは獲得できないという絶対的な方向性を持っています。ただ、私はそれらを了解しつつも気づかないような素振りをします。太宰治が死ぬ前や芥川賞落選時に客観視のない文章を書いたという点にだけ縋りつきながら。

 


 こんなものはキッチュだ。そしてペダンティックだ。いや、もしかしたらそれらですらないかもしれない。ただ、それらであることを祈りながら、それらですらない文章を我々が書けるのだろうかと思う。私の二枚の饒舌が書かせた文章が何も意味しないことを思うと、煙に巻いてやったと言う気持ちよりも、煙が少しの悪臭でも残していたならいいと言う気持ちになる。結びに何を書けばいいのでしょうか。あと残り二、三回という歯切れの悪い回数を前に、別れを惜しむ言葉は気恥しさによって喉に詰まり、かといって今書かねばこんな文章を渡す気力も再び湧いては来ないでしょう。今までの診察で何を喋ったかすら思い出せないが、何かを喋るために病院へ足を運んでいたような気がする。それが日によって音楽かリストカットかの違いはあれど、気持ちは常に真新しい服を初めて着ていくような気持ちでした。ありがとうございました。そして、あと数回の診察よろしくお願いします。こんな文章を書くことになった理由が怒りであることが残念でならない。取ってつけたような(取ってつけたということはそこにあったということだが)感謝でこの文章が意味を免れないこともまた、残念でならない。無意味を目的とした無意味な文章を書くことに失敗してしまった。この長文を読んでいただき、もしくは読み飛ばしていただき、ありがとうございました。