反日常系

日常派

物語の蠱惑性

 戦争は長い間続き、昼食のサンドイッチを食べながらそれなりの社会との連帯感を求めてニュースを開くも、数分も待てずに違う窓を開いてしまう。戦争という名の(そして戦争という名のもとの)情報戦。それに対して、先の大戦を経験した我々はその情報を精査し、もしくは精査しないことによって、プロパガンダではないかと訝しむ。以前はドラクロワ自由の女神よろしく英雄視されていたゼレンスキーも、今は諸手を挙げての賛成は明らかに減ってきているようである。

 何故そのような傾向が見られるのか。この傾向が日本だけなのか全世界においてなのかはわからないが、日本においては、大戦時の教育への反省からの物語への忌避感が挙げられるように思う。大勢があるヴィジョンを共有し、ある方向へと向かおうとする、という図式がある程度嫌悪感を持たれやすくなっている。勿論これは全員ではないが。更にはオウム真理教の事件等も物語への嫌悪感に繋がっているだろう。それ以降、日本人は物語的──言い換えれば劇的──よくもまあ的確な言葉を昔の人は作ったものである──なものを避け、それによって緩やかな終末、それも、それすらも自覚しない日常を過ごしている。非常に無味乾燥で、安全である日常。それは無味乾燥で安全が故につまらない。その日常を過ごしているうちに、人々は物語を求める。そしてある程度の人々は劇的の劇物の臭いを本に求め、映画に求め、宗教に求め、政治に求める。それぞれの臭いの強さによって、顔を顰めるか、頭がくらくらとやられてしまうかは変わり、パンチドランカーのようにやられてしまった人から順に考える能力を奪われてしまう。

 何もこれは日本に限った話ではない。その日常にどれだけ物語が含まれているか、そしてそれに満足している人の割合は国によって違いはあるだろうが、物語が娯楽として消費されていない国はあるまい。

 ゼレンスキーを見て思ったのは911テロ事件のブッシュだった。親の七光りという言葉が英訳されうるか否かは僕の語学力故に知る由もないが、そういう見方をされ、頼りないと思われていたブッシュが、テロに対抗する、毅然とした態度を取るようになってから支持率も上がり、支持者たちが「U・S・A! U・S・A!」と、映画でよく見るアレを真似するかのように高揚していくのを、ニュースを見た幼い僕は違和感と共に記憶の片隅に置いたのだった。詳細には言わないが、今のアメリカのトランプ支持者のある程度は物語中毒者でしょう。

 これはゼレンスキー批判でも、ゼレンスキー支持批判でも、物語批判でもない。ただ、ジャンキーならば何を欲しているかを明確にわかっている必要があるというだけだ。物語を欲しているのに、欲求が何に向けられているのかも知らない人間はいとも簡単に物語に掠め取られ、物語を精査もしない人間は粗悪な物語を押し付けられる。それは粗悪故によく効く可能性もある。ただ、それが工業用アルコールみたいに失明させる可能性と隣り合わせだということを忘れてはならない。海外文学の誤読(誤読自体は悪いことではない。誤読は素晴らしい成果を挙げることもある)から私小説という物語のない文学を作り上げ、戦争とオウムを経由した、反物語の国の一人として、掠め取られないように何に違和感を覚えていて、しかしそれでも逃れようもなく何を欲しているのかを覚えておきたいと思う。

 

 時事について語る時、僕は主語を「我々」にしてしまう。時事の持つ同一化の持つ力は凄まじく、この文章でさえ主語を「我々」にしたくて堪らない。ある程度纏まった記事(と、僕は思うのだが)にこんな私文章を書き忘れのように残すのには、跋扈する「我々」を主語とする記事に勝手に反感を持っているという理由と、ただ、「私」を志向し、それに沿った文章如きに留めておきたいという、青臭い文学青年思想が僕にあるからである。僕はこう思い、こんな文章を僕は書いている。この段落は青臭く、主張じみているが、この段落がないことにはこの文章はマスメディアになってしまう。マスメディアが日によって極悪人を変え、今日の罪人はこちら、今日の思想はこちらと僕を悩ませることを思うと、テレビが部屋にないことに僅かながら助けられたような気持ちになる。マス対コアなのだ。ロシアではマスメディアが戦争を奨励していると聞く。ニュークリアーを持たない方法はコアである。といった言葉遊びでこの記事を締めようと思う(nuclearもcoreも日本語訳すれば核である)。