反日常系

日常派

酩酊を待つ間に

 酩酊を待っている。薬は二箇所通っている精神科からせしめた物で、名前をなんと言ったか、確かレキソタンだったか。ジェネリック製の、売ってもパチモン屋のようにとっ捕まることのない紛い物を酒で流し込んで、さして違いのわからぬ僕の脳は期待と共に酩酊を待っている。書いているうちに酩酊が進んでいくだろう。誤字やら脱線が増えていくのはご愛嬌ということで許されたい。あまりにも現代医学から遠く離れすぎてもはや化学ではなく新興宗教と化したフロイトによると、誤読や誤字は「間違いたい」という意思や意向によるものらしい。その西洋医学ともなんとも言えない概念を、ただ、なんとなく信じている。神様を信じたいが、僕の脳みそでは神より西洋医学を、その真偽問わず信仰しているのであって、信じたいキリスト教より、副作用を脳と肝臓に与える薬を信じている。

 随分リラックスしてきたようだ。これが酒のせいなのか薬のせいなのか、僕の頭では全く判別することができない。「大好きだよ。みんな。」というような神の口説き文句と同じ言葉が頭の中でガンガン反響している。永遠は薬の作用時間故に信じられないが、一瞬でもみんなを愛することができるのはとても嬉しいことだ。酒を飲む。美味いとか不味いとか、そんな概念ではない。僕はビールを飲めないが、喉越しとは覚せい剤を血管に流し込む感覚とも似て、我々は同じ穴のムジナだと言うことは口を酸っぱくして、そしてある人には甘言を言う時の甘さにしてぼんやりとした目で繰り返し繰り返し伝えていきたい所存である。

 いくら精神科の処方が人を殺さない程度に優しいものだとしても、人を生かすために酩酊を与えているのだと思うと、病院は優しさ──という名の「生きねば」という考え方と教義、それは人によっては全く救いではないのだが──と諦観で経営されているのだなと思わずにいられない。

 文章を書いていると郵便局に部屋のチャイムを鳴らされて、執筆を中断させられた。

 

 薬というものは、「あ、やばい」と直感してからが本番だと、誰だったか文豪かロックスターが言っていた。それを踏まえると、自分の酩酊は簡単な酩酊で、リハーサルを続けているのと同義だと、健康的なのに(本当に?)詰られているような気分になる。レキソタンを二十mg、酒と一緒に飲んだが、思考はまだしっかりしているようである。もう少し増量しようかと思うが、ケチ臭い自分の性分のせいでなんだか気が進まない。酩酊なんて、くだらないのだ。しかし、酩酊のくだらなさが、結局自傷にも似て、人を惹きつけるのは紛れもない事実だろう。

 酩酊には安定なんていらない。ただ、逸脱、いつもの逸脱を求めているだけなのだ。考え方の癖や歪みは病気や障害と見なされているようである。そんなものが医学ごときにどうにかできるようには思えない。

 脳はようやく鬱を薬で覆い隠し始めた。それは無味乾燥としていて、何が楽しいのだと思える。何も楽しくない。僕の神は人間くさい。神と思うことはその人を個人として思っていないのと同義だ。だから嫌になってきた。神とまでは思っていないが、無為な話をしたい。その中でその人を笑わせたい。これは恋愛なんて低俗なものではない。このまま会うこともなく、いつかまたラインやツイッターの中に原因の僕に対する悪意の文章が現れて終わることを恐れている。また一緒に眠りたい。それが同じ布団の中だったらいい。あー、欲求を隠せるような脳のリミットを破壊してしまったようだ。死んでしまいたい。死んでしまいたくない。随分言葉が溢れてくるが、まとまりがない文章になってきた。もう終わりだ。最後に薬も酒もない状態で書いて、短さ故に没にした文章を理由もなく引用する。酩酊の中に戻るとするよ。何も言っていない気がする。酩酊を想像しては何かハッピーエンドを待っている。忘れてくれ。死にたいんだ。全部でなく、自我だけ殺せたならそれで満足だ。神様、頼むよ。

 

別日の日記

 暇にかまけ、あるいは拐かされ、文章などを書いてみようかと思うも、僕の脳内には何も言いたいことがない。そんな時は思いついた単語を勿体ぶって何かしら意味を持つように書くに限るが、僕の脳内には何故かポンカンと鶏糞しか思い浮かぶものがなく、理論もアナロジーもポンカンと鶏糞の前には歯が立たず、ポンカンの名前の由来を検索したり、チョコレート菓子で鶏糞に似ている物を探したりするが、特筆に値するような感傷や風景も創造することができない。

 自動筆記的でシュルレアリスムのようだなと思うが、作品となるのは意識の流れじみた莫大な量の思考や連想の切り取られた、マシな一瞬で、ポンカンと鶏糞は解剖台の上のミシンと傘のように美しくなりえはしない。

 暇すぎると何もない脳内にある特定のイメージが固着してしまうことがよくある。その場合、そのイメージが過ぎ去るのを待つしかないが、日によっては何もできないということが病のように体を蝕んでいるように感じる。