反日常系

日常派

日記

 友人と酒を飲んだ。毎日のように──と言うと毎日ではないがほとんど毎日という風に取られるだろう。毎日である──酒を一リットルから飲み、前後不覚になったふりをして憂鬱をやりすごしている。なので、寂しく酒を飲むならせめて友人と酒を飲む方が些か健康であろうという目論見があり、友人を誘ったのであった。他には、躁鬱病の調子が酷い時に、友人からの誘いを断り続けていたことも理由になる。まあ、そんな調子で浅草に酒を飲みに行った。片手で握れば完全に姿を隠す程度のコップを五六杯飲み(そこは電気ブランが売りの店で、その場所の売る電気ブランだったせいか、単に友人と飲む酒が美味いせいか、酒に慣れたせいか、前にネット販売で瓶で買った電気ブランよりは幾分か美味しく感じたのだった)、酔ったふりをして適当な話を続けた。風俗の話やら文章の話やら未解決事件の話やらをした。何を話したのかを正確に思い出せないことから考えると、または家に帰った時に寂しくて世の中の全てを怨みそうになったことから考えると、ちゃんと酔っ払っていたようだ。

 話した内容の中で痛切に響くのが、空想の中でさえ、女性と話をできるような気がしないという事だった(僕ばっかり話していたから、友人がそう思っているかは定かではないが)。何処にも僕と話せるような女性が存在しない気がする。自分が余りにも高尚過ぎるためという訳ではない。ただ、彼女らと僕では住む世界が違いすぎるのではないかと思える。あまり、僕が読んでいる本を読んでいる女性はいないし、僕の聴いている音楽を聴いている女性はいないし、そもそも僕と話したい女性など存在しないような気がする。酷く馬鹿にされているが故に、わざわざここまで降りてくるような女性は存在しないように思えてならない。

 馬鹿にされているのが被害妄想ならいい。だが、被害妄想と察するには例外を視界に入れなければならないのであって、僕のような人付き合いが苦手な人間にとっては妄想が真に迫り続けていくのだろう。女が酷く残忍で、利己的な生き物に思えてならない。僕はとてもじゃないが女性のようにはなれない。

 

 まあ、誰もこんなブログ読んでなどいないし、なるべく上手に文章を書こうと思っても上手くいかないから、死にたくなる。指を上下左右にフリックさせても、画面に映るのは愚痴や妄想ばかりで、この文章を少しでも素晴らしくする為には自殺しかあるまいという結論に至る。最近、自殺に至った人々の手記や作品を読み耽ることに執心していて、それは作品に触れたいからというよりも、自分もその神話の最後尾に並びたいという欲求に拠るものだ。太宰治田中英光などから始まり、山田花子華倫変二階堂奥歯やら南条あやなどに辿り着く。最近は漫画家の羽鳥ヨシュアが気になり、今日、夜行の羽鳥ヨシュア追悼号を購入しに神保町まで向かった。羽鳥ヨシュアの作品を読むのは初めてだった。さして面白いともつまらないとも思わなかった。ただ、死んだだけで、追悼されているだけという印象を持つ。何作か読めたらいいのだが、単行本化されていない為、夜行のバックナンバーを追っていくしかない。ただ、追悼文は人間がゆっくりおかしくなっていくのを追体験できるみたいでよかった。

 せめて、太宰治のようになれないのなら、羽鳥ヨシュアのようになりたい。本になるほどではなくとも誰かに認められ、誰かに心配されたい。誰かが僕が死んだ時に、僕との間に何があったか、記憶の回路を辿ってほしい。僕のような誰かが、僕が死んだ後に気になって墓を荒らすように作品を暴かれたい。けど、結局は誰でもない誰かがそうなってくれることを祈っているだけである。誰か、個人の顔が思い浮かぶこともない。誰も愛してないから誰も大事にしてくれないのか、誰も大事にしてくれないから誰も愛せないのだろうか。自己憐憫に収斂していく物しか書けないのが悔しくてたまらない。皆死ねばいいし、そんなこと言ってる自分が一番死ねばいい。自分が死んだ後に、記憶の回路を辿ってくれる誰かだけ生きていればいい。酒の力を借りて言えばそんな感じだ。