反日常系

日常派

そういえば

 そういえば、なんて書き方をするけれど、ほぼ一年前に祖母が死んだ。なんとなく思い出す程度の仲だったのだ。詳しく書こうとすればするほどするりと逃げていく、金魚すくいのような日々だった。

 祖母とはさして仲が良いわけではなかった。祖母には血の繋がった子供が二人いて、孫が三人いて、そのうちの一人がぼくであった。小さい頃、(弟が知的障害と身体障害を持っているために)親が働きに出るときに一緒に預けられた記憶が何日かぶんだけあるだけだ。父親も祖母のことを積極的に語ろうとはしなかった。が、祖母が創価学会を信じているのに対して、父親が創価学会を敵対視している新興宗教を信じていることから、小さい頃から「そういうことなんだろうな」とぼんやり認識していた。嫌な子供であった。祖母はたまに家に来てはお茶を飲み、他愛もない話をして帰り、ぼくの母親は祖母の悪口をぼくに吹き込むという調子だったので、ぼくもなんとなく祖母が苦手になっていった。

 大学を辞めた後、祖母は家に来て「蕎麦を食べに行こう」と言ってぼくを連れ出し、友人の車で創価学会の会館に入り、勧誘をしたことがある。それがきっかけになって、祖母とぼくは疎遠になった。父親に宗教に入れられてからは宗教が嫌いになっていた。母親に宗教嫌いを吹き込まれたというのもあるだろう。

 死ぬ二三ヶ月前から、「覚悟はしておけ」という話は聞いていた。覚悟もなにもなく、死んだらそれまででしょとしか思わず、なんとなく過ごしていると、祖母が死んだ。それまでの話だけだった。

 葬儀には別れた旦那や血の繋がりのない甥まで呼んで、ようやく一番小さいホールがそれなりに見えるほど人が埋まった。創価学会式に葬式を執り行ったが、父親の一存で骨は父親の宗教の墓に入れることになった。真新しい墓を見て「お前も死んだらここに入るんだぞ」と父親が元気なさげに笑った。父親と仲の悪い母は渋い顔をして何も言わなかった。和尚は「邪道の宗教を信じたことによって、死後、良い世界に行くことはありませんが……」と御託を並べた。

 

 人が死ぬことはどんなものなのだろうと思う。そんなこともわからず何回か自主的に死にかけて、なんとか助かっている。明日死にたくなるか、明後日死んでいるかもわからない。ある人には死は救済で、ある人には恐るべきものだ。どちらにしろ「それまででしょ」と思考停止しているぼくには辿り着けない思考だ。自分が生きたいのかどうかすらたまにわからなくなる。

 前に閉鎖病棟認知症のおばあさんが一言だけ意味のあることを叫んだことがある。

「何もわからなくなる前に死にたい!」

 いつも意味の通らないことを叫んでいるおばあさんは、いつもみんなに粗雑に扱われ、悪口を公言されていた。しかし、そのときだけはみんなが静かに頷いた。「たしかになあ」とおじさんは言った。「病院の外で死んでくれ」と看護師は言った。

 それから数日後、いつもより訳がわからなくなって、いつもの数倍の声で叫んでいたおばあさんがいて、その翌日におばあさんは病棟から消えた。死んだのかは定かではない。

 

 祖母の葬式では、みんなが祖母の死に方を称賛していた。祖母は痛み止めを使わず意識が混濁することもなく、ただただ死んでいった。そろそろだと病院から連絡があり、真夜中に家族が向かっている最中にひっそりと死んだ。ああしてボケずにポックリ死にたい、というのが一番飛び交った言葉であるように思う。それなら、「死にたい」と思っているうちは死ぬべきではないのではないかと思った。意識がはっきりしているから。生きる理由も死ぬ理由も考えているうちは、生きる理由がなくとも、死ぬ理由があっても、死ぬのはださいのではないだろうか。そんなことを一年経ってようやく考えた。信仰の道を見つけられず、邪道を生きているぼくはこの一年で三回入院して、二回手首を切って、一回致死量らしい薬を飲みました。そんなことをぼんやり考えながら、自分が考えていることを生きる理由にはできまいかと思ったりしてみるのです。