反日常系

日常派

日記

 今日は寒く、天候の話をする度に、太宰治が「昔の文学者のサロンでは天候の話しかすることがない者のことを天候居士と読んだ」というような内容を書いていたのを思い出す。もう十月も終わりかけ、その暦に則ればそれらしき天候なのだが、毎回そう思いながらも思ったよりも時間が経つのが早いと感じる。最近は酒や本といった娯楽を選択しているため、より時間が経つのが早い。一日は長く、過ぎた一年は短く感じるのが暇人の常である。幸いにも、孤独と暇を飲酒やら読書で燃やすことができているが、そこに憂鬱が入り込むと全てが台無しになってしまう。憂鬱に崩されないように時間を差っ引いていくジェンガが、今日も常々と何一つ変わりなく、机の上に散らばった。溜息をつく。

 今日もまた、病院に通う。医師やらカウンセラーは僕があまりにも人に心情を吐露するのが下手な為に敵のように思えてならない。そんな調子なので、酔歩の足跡から何かを察してもらおうと片手にチューハイを握りしめ、カウンセリング室や診察室へ向かう。酔っているふりをして、その実幾分かは酔っているのだが、目を瞑り、謳うようにうんうんと喋る。なかなか自分の自意識が邪魔をして上手く痛切に響かせることが叶わない。破滅的に酩酊していないと、そういった免罪符や口実がないと人に辛さを語ることができない。そのせいでチューハイを小道具にするためにコンビニに寄って小銭を増やしたり減らしたりしている。

 自分の長所なのか短所なのか、自分の語りに常に客観的視点を挟み込まずには喋ることができず、信頼できない語り手というような語り方ができない。酒を句読点のように注ぎ込みながら、「僕はね、酔っていないんです。酔っている人間は酔っていないと言うのが常ですけれども、酔っていない人間だって酔っていないと言うものでしょう。僕は人に弱みを見せるのが苦手で仕方ない。自傷の後の手首や首の縫合糸の数だったり、飲み下した錠剤の数が一番真に迫るもののように感じます。それ以外の道を模索しようと、今日は飲酒をしているというていでなんとか言葉を吐いているわけです。僕は酔ってなんかいませんよ。この言葉だって演技じみていて、その実演技なんです。喋っている内容は本当ですけれども、喋り口調は全て演技です。こうでもしないと、他者からしたら僕の悩みは他人事な訳で、元気だったらそこに可笑しさを付け加えることもできますけれど、今はそれが不可能なので、この口調で喋っているんです。僕の演技があなた方に伝わるとは思っていないですし、伝わる可能性が少しでもあるのなら、演技しているということは黙っているべきなんですが……客観から逃れることができない……」

 そう言って僕は一息に缶に残ったチューハイを飲み干した。時間が来て、次回の予約をする。部屋を出る時にわざと七割ですっ転んで、へらへらと笑うのも欠かさない。すっ転ぶ為に酒を飲んでいるのかもしれない。零さないように飲み干した缶チューハイが病院の床を転がっていて、それを追い回しながら頭を下げて病院を出た。