反日常系

日常派

日記

 アルコールで眠くなり、コーヒーで眠くなくなる。その中間を行き来しながら、ただ、ぼんやりと思いつく物事に嫌な出来事が思い浮かばないように気をつける。酒を飲めば直近のことは忘れるくせにずっとあるものごとは消えない。死にたいとうわ言のように言うけれど死ぬのは何かと先延ばしにしてしまう。少しでもファンタジックな思考回路にしようと、小説を書くけれど少しも良いことは思い浮かばない。誰かが僕に仲良くしてくれたらいい。その誰かが安心をくれるならもっといい。けれど、そんなふうにこの世はできていない。

 ずっと、自殺の名所を旅したく思う。その当時では高かった団地の屋上から下を見下げて楽しいと思いたい。誰かが作った神話を書き換えるように、最近の死者に名を連ねたい。けれど、そうしようと思う気持ちは強く続かず、いつか行こういつか行こうと思いながら空想上の地面に、頭から血を集中線のように吹き出した人間を想像する。その人間の顔は最近見た刑事ものの被害者になってしまうし、正解の顔は今や伺い知れない。

 今や誰も見ていないブログを、生存報告のように更新する。昔は見ていて、今は見ない人は、昔の僕に今では見れない何かを見ていたのだろうか。結局、前持っていようがいなかろうが、今持っていないのなら同じことで、日に日に自分が凡人になっていくのを感じる。少なくとも昔は、凡人ではなかったという幻想を見続けている。

 たとえばオーバードーズ、たとえばリストカットなど、症例に加わってからしばらく経った自傷行為を、真新しいものと勘違いして自己の物にしたい気持ちも、今や二十七にもなると存在しない。オーバードーズをすれば弱った体が入院を必要としてしまうし、リストカットも外科医に毎日通院することを約束させられるのだと思うと選べない。違法薬物をやりすぎて死んだギタリストも、マシンガンで頭を吹き飛ばしたロックスターも、寝ゲロで死んだシンガーも、僕の歳になる頃にはもうとっくにそういった自傷行為が何一つ現状を変えてくれないというのはわかっていたのだろう。僕はまだ確実に死ぬやり方以外に楽しい番組とか幻想が見えすぎていて、その方法を選べない。

 自殺が作り上げる神話の最後尾に加われればいいと思う。けれど、自殺というのはユースカルチャーで、今の自分がやっても痛々しくて仕方がない。自殺をすれば誰かが自分の行いを後悔してくれるというような神話も今ではかなり掠れて見える。ただ、生きるしかなく、そして向上させていかなければならないのだが、そうできるとも思えない。それなのに信じることを未だにやめることができない。空想の屋上から空想の地面を見るが、誰かが誰かの顔をしながら、死んだ後に自分の顔を他者に想定させ続けることの難しさでその誰かの口は常に動いている。