反日常系

日常派

美しい若者たち

 最近、精神の調子を酷くしていない。俺のようにメンヘラであることを唯一のレゾンデートルと勘違いしているような輩にとって、これは一番存在を脅かすことだ。ガキの身長を刻まれた大黒柱かのような手首から、赤いケロイドが色を消し、下手くそな油絵のような質感で肌色が主張している。もう俺は全く死にたくないのかもしれない。

 そもそもレゾンデートルとは他者と比較して導き出されるものではなく、自己完結していることが第一の要件なのだが、そもそも人間に自己完結した価値など見いだせるのだろうか。人は他者との違いを見つけ出すことに血眼になり、そのために眼がついているのだ。他者と比較しない、自己完結したレゾンデートルとは、他者と同一のものなのかもしれない。もしそうなら、そのために道徳なり倫理なりの授業があり、人を統一的に同一の価値を持たせることで人を虚無から救い、安心を与えているのだろう。生きる理由がない程度では死ぬ理由にはなりえないとフランスの小説家が言っていた。酷だが、確かに正しいのだろう。

 そもそもこんなジュヴナイルぶった悩みをいつまで考えているのだろう。そのくせ、ジュヴナイルやライトノベルで思春期の悩みを描いた物は少ないように思われる。俺はもっと、子供たちが答えのない問いに答えを宛てがうのを見たい。そしてその答えのない問いは答えのないままでいいのだと悟らずに終わって欲しい。二十六にもなって、自分が感情移入できる少年少女を探しているのはいささかグロテスクすぎるが、未だに大人になれないと自慢げに振りかざす纏足のような価値観から少年少女を求めるのがやめられない。

 少年少女の美しい自殺を見たい。自殺はそれ自体で完結する完璧なレゾンデートルである。道徳や倫理の授業が既製品のレゾンデートルを与えるのには、この真理を隠蔽しておくためであるとも言える。

 自殺が美しくある為には、若い身体が不可欠だ。ある一定の年齢を超えると悩んで死んだことにされてしまう。老いた人間はさらに老いさらばえることしか残されない。美しい自殺体は「思考の欠如」と言われ、その意思は全く尊重されずに火葬され、骨を摘まれ、静かに地中で恨めしそうに我々を眺める。若くしての自殺は助かる手段がいくらでもあったのにそうしたという美しさがある(本人はそれらを救いの手だとはつゆにも思わなかっただろうけれど)。成人すれば、救いの手なんてどこにもない。

 虚実問わず若い人らにこうであってほしいという思いを託すようになったなんて、随分浅ましくて醜い怪物になったなあと自分でも思う。もうメンヘラは現代の流行り物でもなんでもないのだから、そうする敏感な若者は少なくなっているだろうが、老いた者を無視して少しでも何も考えずに健やかに生きていてほしいものである。無知や無思考ゆえの憂鬱は美しいが、(それ自身が美しいがゆえに)見ていて苛立つので。