反日常系

日常派

医学書の中に踊るリストカットという文字

 メンヘラという言葉に手垢がつき、更には一般に広まるようポップ化され、本来の意味からはかけ離れた意味で使われるようになってから随分と経った。ポップ化というのは簡易化と陳腐化を悪意なく表現する為の言葉だ。今ではリストカットも症状の一つとなり、定型化してしまった。自分がそう出来ているかはおいといて、自傷とは常に一つの発明でなくてはならないように思う。自傷とは自分の心象を表すための一つの新しい絵の具(もしくは描き方)であり、定型化してしまってはそれに覚悟は要らず、自分を表現する専用の修飾ではないからだ。心を病んでいると思われる為に心を病んでいる人の模倣をするのは、ある特定のキャラクターが好きなオタクがそのキャラクターのコスプレをするのと同じで、ほとんど児戯に近い。憧れをスタンスの模倣ではなく、簡単なモノマネで済ますことを軽蔑を込めて「ファッション○○」と呼ぶ。それを俺はパンクロックから学んだ。

 そもそも、メンヘラというのはもう流行っていない。それは当事者部外者問わず、誰もがなんとなくの認識として了解して頂けると思う。俺も医者との会話にそれが話題として上がり、流行り廃り自体と廃りの時に降りられなかった自分の情けなさを嘲ったところだ。(本来の意味での)メンヘラが廃れた理由は、ある決まったスタンスを答えとして提示出来なかったことにあるように思える。元々、スタンスなどメンヘラの中には存在しなかったのかもしれない。スタンスのない空虚なイメージの中、症状の一つとして医学書の文末に付け加えられるような自傷行為だけが増えていって、記述されていない行為がなくなった時、メンヘラは一つの虚像として完成してしまい、そして終わった。

 昔、メンヘラという言葉で表されていた範囲(つまり精神病の人たち)は、一つの逃げの口実として非常に魅力的だった。つまり、憧れられるに値する何かがあった。今、ポップ化されたメンヘラという言葉の指す範囲は昔メンヘラと呼ばれていた範囲とは全く違う。今のメンヘラという言葉の指す範囲は、嫉妬から来るかわいいヒステリーのことだ。かわいいというのは程度が許せるほど小さいという意味と、ポップカルチャーに照らし合わせた時に少しはポップ性があるという意味である。現メンヘラは旧メンヘラとは発生原理が全く違い、ポップカルチャーから来たものだ。ポップカルチャーにスタンスはない。ただ表層だけがある。その性質故、流行は必然的に廃れる。流行り廃りの朝三暮四で利益を得る仕組みになっている。

 長々といつものようにメンヘラについて語ったが、言いたいことは、子供騙しのリバイバルという形で復活するかもしれないが「もうメンヘラは新しくなることはないだろう」という事だ。新たな自傷を発明するのは難しすぎるし、それを受け止める側も、それを自傷とは考えず、理解できないフェティシズムの一つとしてでも簡単に捉えてしまうだろう。みんなメンヘラをやめていく。それはもう始まっている。周りから人がいなくなるのはとても寂しい。しかし、メンヘラはもう求心力のある概念ではないという諦めと、もう人がメンヘラになるのは止して欲しいという気持ちもある。他人の悩みには何一つとして関心を持つことが出来ない。関心を持つことができるなら、それは未来に症状として書き加えられる、新たな自傷=自己表現で、それ以外は本当につまらない。ベテラン精神病患者として信用されてか知らないが悩みを打ち明けられることがある。解決したいなら医者に行くべきだし、ただ話を聞いてほしいなら金を払って女とでも喋った方がいい。俺は無料で使えるカウンセリングではない。兎にも角にも「医者に行け」と言いたいが、そうした後、良くない患者の例として俺を手本に睡眠薬を沢山飲んだり手首を切ったりしても後味が悪いので、言わずに話を聞いている。しかし、人に話して気分を上げるという対処療法ではいつか間に合わない時が来るだろうし、聞く側の負担というものもある。新しい自傷の内容以外は然るべきところに吐き出して欲しい。