反日常系

日常派

文章を踏み外さないよう

 夜ごとに発見し、朝ごとに紛失する、簡単な希死念慮を発見した。自分の身を切り裂くような(これは自分自身の手首と首を切り裂いたことのある俺に言わせてもらえば、陳腐なこの表現はもう錆び付いているし、あまりに感覚と言葉の指す範囲がかけ離れすぎて、誰の感性の喉元を掻っ切ることは出来ない。何の話だったかね? ああ、そうそう、自分の身を切り裂くようなと言った形容に続く言葉をこの括弧の後に続けるのだった)時間が刻一刻と自分の寿命をカウントダウンしている。そして自殺をしたくないというような気持ちになればそのカウントダウンは逆方向へとカウントアップしていくのだが。そう言った終末時計じみた欺瞞を繰り返している。カウントアップがあるならカウントダウンは退路のある進軍に他ならない。そしてそれは全くドラマティックではない。悲劇や喜劇の呼び起こす情感は「それでしかありえない」といった物事によって擽られる性感帯を持っている。長々とした前口上、長々とした括弧内、長々とした追補、長々とした形容……。つまりは(つまりという言葉で言い表せることに四百字、小学生の頭で考えれば一時間の長さの文章を書いていることに一端の羞恥心に駆られながら)俺は死にたいということだ。延期させていた自殺をさらに延期させる理由が見当たらない。好転することのない人生を転がっていくくらいなら、苔むした岩となるために転がるのをやめるしかないのではないか? そして転がるのをやめる方法は自死でしかありえないのではないか? 二十五で後がなく死んでしまいたいと思うことは、視野の広い人間には馬鹿げた考えに思えるかもしれない。だが、俺の視野の広さ(狭さではない)はこれから先何十年間のシミュレーションを繰り返した上で、自死しかないと考えている。これから先、耐えれるほどの人生を生きていけるとは到底思えない。耐えれないと思いながら生き延ばすヴィジョン、それこそが最も耐え難く、最低のマイナスをロスカットするためにはリスト及びネックをカットするしかないとの結論に至った。

 が、問題なのはこの最終結論に退路(イコール、終末時計の巻き戻し)があるということだ。朝になれば、布団から箪笥までひっくり返しても希死念慮を見つけることは出来ないだろう。俺は長々と書いた文章をここで見返して思った事が一つある。言葉、そしてそれに続く補追、補追、形容詞、形容詞……「つまりは」で済む言葉に長々と言葉を重ね塗りしていくのはパラノイアの手法だ。言葉を重ねるのは言葉の持つイメージを別の言葉のイメージで掛け合わせていく時に使うべきなのだ。パラノイアのように、言葉の指す範囲を別の言葉の指す範囲で割っていくためではない。限定に限定を重ねて人の知覚できない細さになった言葉たち。パラノイアの言葉は言葉の量からして、多すぎて理解ができないのだと誤解される。が、実際のところ、パラノイアの気にしている差異があまりにも小さすぎて、同じことを延々繰り返しているかのように思えて理解されないのだ。言ってる意味がわかりますか? わかることを願う。共感なんて大それたものじゃなくていい。ただ、あなたの口から「あなたはキチガイではない」と言わせるにはあまりにも忍びないため、その代わりに「あなたの文章は理解できる」と二人の間に決められた暗号かのように言ってほしいだけなのだ。あなたは俺が何を言ってるかわかりますか?