反日常系

日常派

生きずに在りたい

 ラッパーが生存以上生活未満というパンチラインを吐き、それがマイク、パソコン、オーディオデータ、時間、そして俺のiPhoneを経由して耳に入る。そしてそれを脳内で文字情報に変換してiPhoneをフリックした。生存以上生活未満。全くもってその通りだ。上がったビーボーイたちが片手を振り上げるその動きより早く、そして大袈裟に、俺は諸手を挙げて賛成した(ひとりでに)。一日に二十四時間生存しているが生存を能動的に行っていると言えるかはあまり自信がない。心臓は俺の意思に関係なく動く。「死にたい」という思考は勝手に湧き出る。生存とは意志に関わらず行わされるようだ。死とは「できない」という自発的ではない事実からの否定のようだ。生きることは「できる」というよりも「(そうできて、そう)している(意識に関係なく)」であるというのにも関わらずだ。息を止めようと思っても「止める」という動詞は(ほとんど全ての動詞は)それだけで生存を肯定してしまう。

 一方、生活とは行うべくことを意識的に行うことの連続だ。完遂することもなく積み上げられたタスクの増減を繰り返しながら、ただ今以上に生活を行えなくなった時のことを考えて怯える。生存できなくなることより生活できなくなることの方が怖い。拷問と死を選ぶしかないなら死を選ぶのと同じ理論だ。意識は不幸の最中邪魔にしかならない。

 そう、意識は不幸の最中邪魔にしかならない。それを言葉にせずとも知っている人々は、本能的なその嗅覚でアルコールを嗅ぎつけ、メディスンを呷り、人によっては法を犯す。眠りが人の救いなのは無意識だからだ。無意識は不幸の先延ばしでしかないのだが、意識が不幸との直面であるなら無意識は幾分か優しい。それ故に死を救済と勘違いできるような気がする。それでもやっぱり死を怖がる気持ちがある。生を怖がる気持ちも背比べをしながら横にひっついている。

 生活の些事に追われると、すぐに死にたくなる。賃貸アパートの更新だったり、携帯料金の支払いだったり。生存には重要ではない自発の意志が、行うという動詞によって否応なく再発見されるのがとても嫌だ。生きたくないと思っているのに生きてしまっているということがとても承知しがたい。生活できないことが怖いから生活したいのに、そもそも生存したくない。生存以下生活以上になる方法はないものだろうか。器用なゾンビにでもなって、死んでいるという自覚の元に気楽に過ごしたい。