反日常系

日常派

全員が全員死を予期しているのだが

 「死にたい」と言う女は「死にたい」と言う男ほどではないが嫌いだ。でもいちばん嫌いなのは本人の意思ではないところに生死があるのに「生きたい」と言う人間だ。人々にはハレとケがあって、誰しもケの臭いを番犬のように嗅ぎつける。言葉にも臭いは宿る。ケの臭いがしないことはマナーだ。発している主体が生きている限り、「死にたい」は死相ではないが、「生きたい」は立派な死相だ。それは置いといて、俺は圧倒的に死の匂いの方がする人間だと思う。外に出る時は加齢臭に悩まされている中年男性のように誰かに臭いを確認してもらいたい。どう?(脇やうなじを妻の鼻に持っていって) 許容範囲内? オーケー。

 人に会うこともないが、人に会わずとも言葉を交わせる現代社会、俺の発する言葉の残り香がタイムラインやらライン履歴に残り、ひと足お先に腐臭を発している。

 問題は腐臭のする方へ呼び寄せられた人間だ。遺書はそれが存在する限り腐臭を漂わせ続ける。物を書くというのはいずれ腐臭の原因となる物を残すことなのかもしれない。日記はいずれ遺稿になる為の途中経過とも言える(とも言えるというのはとも言えないと同義だが)。いずれ腐臭がするようになる運命の文章を書く際には(それはすべての文章なのだ)、貨幣のように普遍的で、個人的でないようにすることが臭いのマナーを破らない唯一の方法だ。が、それはつまらないと背中合わせだ。

 そんなことを書こうと思った理由は一目も見たことのない死んだ人間の遺書を読んだからだ。ネットに腐臭を残したそいつが死んだのは十五年くらい前か? 知らんが、死んだという事実が言葉のそもそもの腐臭に後ろ足で小便をかけ、猛烈なケの臭いが俺の眉を顰めさせた。勝手な共感を持ったスノッブが「彼女(She)」とさえ呼びさえするその書き手の良さは俺には全くわからないが、共感とは普遍ではなく強烈な個性に対する感情だと言う点でそれなりに賞賛には値する。と、思う。ただ言いたいのは腐臭を嗅いで嫌な思いをしたという日記だ。もしこの腐臭から学び取ることがあるとするなら、超然と「俺は永遠に生きる」と言い放ち、そう思わせることが(マナーを破らないようにするためには)必要だということだ。だが、面白い文章を書くためにはケの予感が必要なのかもしれない。香水に含まれる糞のように。