反日常系

日常派

日記

 代わり映えのしない、間違い探しみたいな暮らしをしている。誰かの暇に取り付く暇つぶしの対象にもなりえないから、間違い探し以下かもしれない。見慣れた道の端に生えた雑草みたいな、何かが違って全く同じである訳がないことは確かなのにそれは全然本題にされない暮らしだ。皆同じところを行ったり来たりしてる。そんなことはわかっている。問題はそれに生産性があるかどうかだ。生産性、クソが作って政治家が大切にしてる言葉だ。それの有無で物事を決めるのは興味のないものには不寛容であるバカのやることで、俺もそうしたバカの末尾に加わって自分に火炎瓶を投げる準備をしている。

 映画ばかり見ている。登場人物が髪を切り、成長する度に心が痛む。皆、生産する側になる決心をつける。何かを作れるということに憧れを持っている。それと同時に何も作れないという結論が下されるのが怖くて仕方ない。やらない限りできないにはならないから、そうやって逃げてばかりいる。

 もう二十五で、まだ一年は経たないだろうなんて思っているうちに二十六になる。ロックスターの享年を例に出さなくてもなんて歳をとったものだろうかと思う。そんな歳になって思うのは、ロックスターは若さを維持できていたということだ。二十五歳、死のうとすら思わなくなった。死ねば解決するのは大前提として、その方向に行く気力がない。若さとは決意と決行の間に時間がないことだ。歳をとれば時間なんてすぐに過ぎる。何かしようと思ってもそうする前に、自分はそう認識していなくても時間が経っている。そんな状態で自殺を決行するのは至難の業だ。だから老人は死ねない。

 死なないが死ねないになるのが良いことなのか悪いことなのかはよくわからない。個人的には悪いことのような気がする。障害のように自分のできることを奪われた気持ち。それと同時に、当たり前の帰結とて、生きることが能動的でなくなった。ただ、神(または他人)の決定を待っている。そのくせして長生きするだろう。そんな予感がする。つまらないことほど長く感じるから、もう長生きしている気分なのだが。