反日常系

日常派

頭痛回想録

 フリージャズの痙攣したサックスソロのような頭痛が、黒すぎる雨雲をベースラインにしてやってくる。俺の父親は酷い癇癪持ちだったが(そして俺の弟は酷すぎる癲癇持ちだ。この似ている文字列は全く韻を踏むことなく、つまり聴覚上になんの意味ももたらさず、視覚野に郷愁にも似た既視感を俺に与える)、歩くことさえかなわない頭痛と引き換えに優しさを手に入れた。つまりはいくぶんか、弱くなった。低気圧の糞っ垂れが俺の頭を悩ませる時、頭は父親のおぼつかない足取り、そしてそれを馬鹿にする母親の声と馬鹿にされた父親の顔をプレイバックする。頭痛持ちが遺伝するのかはわからない。俺が生まれた時、父親は頭痛持ちではなかったし、父親が生まれた時、そして生きているこの最中、祖父は頭痛持ちではない。しかし、横殴りの雨、湿った空気、びゅうびゅうと吹き付ける風、左右されやすいセンチメンタルなムード、それらがセンチメートル定規、キログラム量りでは全く役に立たない大きさの痛みを引き起こす時、それは遺伝によるものなのかということをまず第一に考える。頭蓋骨を破裂させんばかりのそれは父親の痛みの再現なのか、父親の痛みの出来の悪い子供なのか、はたまた出来の良すぎる子供なのか。父親の痛みとこれは世界中のなんの測定器でも比べることは出来ないのだが。この頭痛が遺伝によるものだとしたら……? との前置きで父親の悲しい足取りから未来を予習することがやめられそうにない。

 父親から受け継いだものは多すぎるほどある。歳を取るにつれて、認めざるを得ないその事実は重くのしかかってくる。血とは争えないものだというのが定説のようだ。十代から二十代初めにかけて、血を争う事に血道を上げてきた。つまりは「俺とお前は似ている」という予言と「俺とお前は似ていない」という予想で対立し続けていたようなものだ。ここでは(どこでも)血は争えないという定説に対して肯定も否定も、血を争うということに対して同じように意見を述べることもしない。この長すぎる言葉の児戯の最後に述べるのは、ただ、頭痛が起きると俺は父親によく似た顔を父親と同じようにもたげながら、遺伝子がもたらしたであろう、「体験した気がする」という存在しない記憶に郷愁を覚えるということだけである。この事実に理由や意味を見出すのに必要なフロイディアン的知識を、今はまだ持ち合わせてはいない。