反日常系

日常派

そこにあるだけの呻き

 なんだか消えてしまいたい。そういった若さ故のイカロスにも似たタナトスを抱えたまま、腐っていくように日々を過ごしている。死にたくても腹が減る、そういった人間の原理の不足では人は落ち込まないようだ。腹が減った。飯を食う。

 俺が一番困っているのは、死にたいと言う気持ちに理由をあてがうことができないということだ。理由はないのに疲れるし、疲れれば体調に引きずられて気分は落ち込む。理由もなく落ち込んでいると腹痛がやってきて胃をきりきりとさせる。そういう腹痛には何も効かない。唯一の薬は安心することなのだが、その薬は処方されず、購入もできない。ただ眠っていればそれなりに頭は冴えるだろうが、冴えた頭で考えるのは何かが足りないのだろうということばかりで、陰から見守っていた腹痛が嬉々として話しかけてくる。

 物を買うと落ち込む。これは金銭が有限であることより、俺への躾が原因だと思う。小さな頃から金を使うと大きなため息で威嚇され、小言を言われ、否定されてきた。そういったことの積み重ねが、金を使うことに対する罪悪感を育て、自己否定や希死念慮を誘発するようになった。死なないで欲しいという親の気持ちが本心から来るものだというのは理解している。しかし、死にたい思いの理由が親の些細な所作から来ているとは、全く思いもつかない頭で心配しているのだということも理解している。まあ、もう不幸のクローズアップは語り尽くしているし、二十五にして不幸の四面楚歌を売り物にするのはあまりにも若書きがすぎるので、語ることはよそうと思う。蓮實重彦が「知とは生真面目な悲劇性ではなく、色気と笑い、うねる言語である(意訳)」と言っていた。全くもってその通りだと思う。嘆くことはほとんど野性の鳴き声だ。言葉にならない白痴の呻きだ。今日もまた、鳴き声や呻きに携帯の充電をやつしている。軽快なジョーク、他者との会話では簡単に出る言葉たちが、画面を埋める文字の中では立ち枯れて腐っていく。それが今の俺の書き言葉の限界なのだろう。叫べば叫ぶほど痛みが和らいでいくように、言葉を枯らしていくことが対処療法のように俺を癒す。薬局やドラッグストアに並ばない言葉たちは知ではなくせせこましい生活だが、それ故に生活をうまくこなしていけているような錯覚を俺にもたらす。例えばプラシーボ療法で噛み砕かれたビタミン剤をここに残して記事を終わりにする。どうもありがとう。