反日常系

日常派

もろびとひとりで

 雪が影さえ落とさないクリスマス・イヴの日に、俺は実家にいた。特に暗い話題もない。したことと言えば、眠れない夜の供に頓服すべてを服用して記憶を消した程度だ。起きた時は布団の中だった。

 クリぼっちという言葉がある。クリスマスに独りぼっちの人のことだ。まあ、なんと呼ばれようと独りは独りで、その強弱は孤独につけられた空回りな虚飾に左右される。恥じるならクリスマスは恥じるべきではない。常に独りであることを恥じる。当たり前だ。

 とりもなおさず、独りだ。寂しいという気持ちは夜に同乗してやってきて、街のネオンをささやきに変えて気持ちを唆す。流行りのウイルスは関係ない、しかし街のネオンは関係する。ラッピングに大忙しの商店は関係する。この夜に囁かれる全ての愛の言葉も関係する。交わされる身体たちも関係する。そういった塩梅。つまりは寂しく感じろ。身のつましさを恥じろ。孤独に唆されて惨めにおどけてみせろ。そういうことだ。孤独は孤独が原因の全ての失敗を好む。孤独に唆されてする行動は全て虚しい結果を生むだけなのだが。

 寂しさについて少しの考察を冷静ぶって披露したが、俺は寂しい。身悶えするその感情に対しては、どちらかというと冷静よりは狂熱の方が近い。することもないし、喋る人もいない。愛の言葉すべてを憎んだり、それを聞く冷たい耳に嫉妬したりする。本を読むしかない。ゲームをする。映画を見る。全てに疲れ、何もすることはできないが。今年は聖夜に向けた浮かれた最高潮がないため、年を越すということが信じられない。一年というのはクリスマスを迎えるための長い前戯なのではないか? すべてが聖夜のためにあり、解釈を取り違えた祝祭は一年を首を長くして待っている。宗教的意義を失ったホリデイが熱狂を意義にすり替えた。人々は熱狂の中で冷静であることに対して怯え、恋人を幻覚剤にする。幻覚もなく熱狂の中で震えているのは辛いことだ。当たり前だが、人はみな客観的には孤独だ。問題は主観的な孤独に対抗しうる幻覚を持つか否かだ。客観的に孤独だろうが、主観的に孤独でなければ少しはマシだ。俺は俺に都合のいい幻覚を待っている。それは人を個人として見ないことに違いなく、その性質が俺から人を遠ざけている。そんなことを思うには無駄に聖夜だ。