反日常系

日常派

孤独

 孤独が飢えにも似て食うという言葉は性的イメージを伴って欲求を具現化させる。孤独がピークに達してバーなどに行こうかと俺に思わせた。バー。行ったとしても下手くそな愛情表現で庇護欲をかき立てたいという欲望の目論見が成功することはない。つまらなそうな顔をして席に座り、イヤホンを外して誰かが発見してくれるのを待つが、誰も俺を発見することはなく、酒の味としか認識できない酒に口をつける。煙草を取り出すも「ここは禁煙です」と目ざとく取り締まられ、肩身狭くさっさと帰る。そういった学習性無力感からの想像が実現することくらい、俺にさえ簡単にわかる。

 歳をとるにつれ、人と仲良くすることが難しくなる。意を決して人に話しかけるも、その決した意の大きさ故に警戒され、消極的な会話に陥る。何事もないかのように人と話すことができなくなってきている。常にどこかへ出かける時は誰かと仲良くなりたいと思っているのに、人から奇異に思われて、おそらく他人に話す時に笑い話にもならない恐怖を与えてしまう。

 文豪とカフェーなる、文豪ごっこのイベント事を知り、行きたいと思ったが、学習した無力感から良くないイメージが湧き出て行くのを諦めた。外に求めるものが大きすぎて、外から帰る時に落胆せざるを得ない。求めなければ楽なのはわかっているのだけれど、求めなければ何一つ面白いと思う出来事などないのだということもわかっている。

 どうしたら人と仲良くなれるのだろう。出会い系アプリで人と話すのさえ面倒くさくて敵わない。売ってる好意は大嫌いだ。好意を人質に取り、相手の好意を要求するような輩を視界の端に捉えると、相手のうんざりした顔を想像して苦笑する。しかし大体の相手は満更でもない顔をして薄笑いを浮かべていて、俺は驚いてしまう。好意を人から表されることがないので、好意を分類して酸っぱい葡萄を想像してしまうのだろう。無料の好意が欲しい。でもそれは鼻をかむくらいにしか使えないだろう。広告のついた反対側から有限のティッシュを引き出し、鼻をかむとすぐにゴミに変わる。捨てざるを得なくなる。そう考えると好意とは有料でなければ長い間楽しめない物だという当たり前のことに気付かされるが、それでも値打ちこいて、自分の好意を人に表現するのを躊躇ってしまう。

 誰かに愛されることや、誰かを愛せるなんてことは今では薄ぼんやりと蜃気楼のように確信を持てないことに変わってしまった。ただ、それが現実にあるらしいと都市伝説のような又聞きをして、期待をして夜に出かけてしまう。そしてまた落胆して家に帰るだろう。