反日常系

日常派

僕と鼠の小説の中

 セックスも人の死もない日常の中を、すいすいと泳ぐようでいて、あてもなく流れに逆らって現在地を変えない魚のように過ごしている。今日に波はない。大いに結構なことだ。セックスを語ることは非常にダサいことだ。かといってセックスがいかに生活の中にないかを語るのも痛々しい学生かのようで、これもまたダサい。言葉が軽いようなら、ダサいを優雅ではないと言い換えてもいいだろう。優雅とはそれ自体を意識せずに立派にできるものだ。その点では犬の肛門も猫の睾丸も優雅であると言える。意識せずに立派である。意識することでもう定義から外れてしまうのは、サイコパスという言葉を思い出す。世間一般の簡単にポップになってしまったその単語のイメージは、優雅に(もちろん優雅という形容が正しくないのはわかる。ただ、無意識に事を成せるという意味でこれを使っている)生臭いことをするというイメージだろう。物足りない中庸は極端を目指す。極端のイメージは実際のイデアに関係なく、単に無意識下に生まれた異物というイメージのようだ。サイコパスに憧れる若年者も現実に言葉にせずとも決していない訳ではないようだ。サイコパス自体の是非は俺の問題ではない。極端として物を言うのはとても恥ずかしいことだし、意識をしている時点で天然の極端ではないと思われるかもしれないという恐れがあるが、俺は双極性障害と、病理的には極端に振れやすいとされている。まあ、是非があるのなら非だろうし、極端に憧れる人間はこういったせせこましい自省と現実に対して盲目な楽観視の繰り返しを求めていないことはわかる。あえて言うのなら盲目であることは無意識である点で望んでいる物と近いかもしれないが。

 極端に振れることもなく、ただ一切が過ぎていく。少しの死と多くのセックスが描かれた、村上春樹風の歌を聴け』の中で、鼠の書く小説には死とセックスの描写がないと書かれている文章がある。その件の解釈で一番好きなのは、「死とセックスがないということは、つまらない小説だと遠回しに言っている」と言うものだ。ネットに流れた論文か、先輩の卒論かなんかで読んだ。つまらない人生の狭い半径を、極端な躁鬱の中で右往左往している。そのうち誰かが死に、もしくは誰かの股を開き、つまらない日常は羊をめぐる冒険になっていくかもしれない。なんとなくそれを心待ちにしている下世話な心が、その時はせめて盲目であることを望んでいる。