反日常系

日常派

僕らが与え、受け取ることもできるのに決して手に入らないもの

 猿もおだてりゃ木に登るとはあまりにも漫画日本昔ばなし的な言葉で使いたくはないが、褒められたり読者が増えたりすればそりゃ気も良くなり、文章を書いている。愛も憎も躁も鬱もガソリンにして走っていれば、そのうち全てを使い果たし、最終的には木や花が色づくことさえ可燃性になっていく。僕も早いところそこに辿り着きたいのだが、今は人生やら概念やらが可燃性で、燃やす物に困ることがない。

 人がこのブログをいいねする(いいねするという言葉にはいつも首を傾げさせられる)と、星のマークが通知欄に付く。星を欲しいために僕は画面を睨み、「私の尻はもう少し大きい方がいいかもしれない」と悩む整形依存性のそれと同じ気持ちで文章に気の利いたエッセンスを少しでも多く振りかけているところだ。多くより少しでも多くというのが肝心で、これは美食家というよりジャンキーに近い。ネット上で高評価を表すのは星かハートで、人が無意識下に求めているのは決して手に入らない物だというのは共通認識として広く知れ渡っているようである。僕たちは星を掴んでは、その手に何個星があったのかも忘れ、新たな星を掴まんと手を伸ばす。ポケットがいっぱいになったかと思うと、星はポケットの穴から零れ落ちていたようで、空虚な気持ちになると、それをまた星で埋めようと同じことを繰り返す。人が過激に、もしくは偏執狂じみてくるのはその繰り返しで会得した癖であり、癖を見ると初見の人々はさっと肩が当たらないように逃げるか、フェティシズムを刺激されて目を見張るかだ。我々は後者である事を祈りながら、自覚してか無自覚か、癖をデフォルメしていく。

 会得した癖を繰り返しているうちにそれは舞踏に似る。体や言葉は必ず訛るものだが、機械は意図しない限り訛らない(今の時代では。昔はドラムマシンにも訛りがあり、それ特有のリズムを求める人々がいたと言うが、それは機械から人間を空想できた幸いな時代の幻かもしれない)。そのために人は訛りにそれなりの関心かそれ以上のものを持つ。しかし、その訛りの舞踏を優雅な、フェティッシュ以上にしていくためには鏡を見て、意図と体の差異に自覚的にならなければならない。

 そこを諦めたのが僕の文章である。より本人の預かり知らぬところで評価されまいかと思いながら書くのは色気づいたヘンリー・ダーガー(つまりは求められないということだが。アウトサイダーアートの好事家は白痴に白痴美を見出す喜びと同じものを感じていて、見るのは好きだが見ているのを見られたくはないのだ)でしかないが、あなたの星やハートを得られることに比べればどうということはない。わざわざこんなブログを読んでいるのだ。勿体ぶった言い回し(や稚拙さやパラノイアックな連想)には耐性、もしくはフェティシズムがあるだろう。あなたの持っている決して手に入らない物を求めて。そしてそれを穴の空いたポケットでパンパンにすることを夢見て。