反日常系

日常派

冬は雪かき、春の犬かき(言葉遊び以下)

 四月になり、もう一週間も経ってから「四月になった」と声や指が反応するようでは新聞記者にはおろか、会社勤めなら全て不適合だろうが、その烙印を押されたという免罪符を盾に取る限りにおいて全ては許される。この文章はいささかディレイして放送される木偶の坊の視界や脳裏を、さらに文章というタイムマシンでディレイさせるという形を未来に向けて取ることを目的としている。いや、嘘だ。ただインスタグラムの台頭によって真四角に切り取られた視界の上から下への荒海を泳ぎ切る能力がないためだ。それよりはツイッターの文体のない一文たちの方がいささか泳ぎやすいし、さらにそれよりはブログの方が犬かきだけでなく、クロールやバタフライなど、人に見せられる泳ぎができるというだけだ。インスタグラムの文章など、説明か囃し立て以外のなんだと言うのだ? 文字の頭に井のマークをつけて人と繋がるために単語を羅列することは、溺れる者が藁を掴むために手足を振り回しているようにも見え、誰しもが溺れているのだという感覚に陥る。子供は黙って溺れると言うが、僕もその溺れ方に習ってインスタグラムでは黙って溺れている。助かり方を知らないために口から何を発するべきかがわからないのだ。けれど、助かり方がわかっているのに藁さえ掴めない溺死者の孤独を思うと、どちらがいいかと簡単に結論を出すことができない。そしてこのSNS社会とはどちらが悪いかを競う競技である一面もある。僕の傷か溺死者の漂う海のどちらが深いのか、どちらもより深いことを祈りながら深化していく。

 社会を語るために文章を書き始めたわけではないのに、気づくと社会について語っている。社会やら人生やらを語り始める時、決まって鉛筆の残りは短いものだ。余裕が人に書かせるものだけがデカダンであり、それ以外は哲学である。哲学とは「これしかない」という消極的態度であり、芸術とはなり得ない。今度は哲学について語っているが、これもまた本意ではない。僕には真新しい鉛筆が必要だ。

 桜が咲き始めると、理性がある限り我々は競うようにして「桜が散っている」と言い始める。桜の花は強くないから、咲いた時点で散り始めている(こんなことは書かずともわかっている)。その点で見ればその発言は正しいのだが、正しい正しくないの前に「私はセンチメンタルである」と言いたいだけのようにも思える。感傷がすべてを真新しい物に変えてしまうのは病的であると同時に素晴らしいことでもある。エモいという言葉はセンチメンタルを健全化し、更には軽薄にもしたという点で、思われているよりも過大に(あるいは過小に)評価されるべきだと思うが、君はどう思う? 僕には桜の花ひとつさえ描写することができなかった。これは健全であるということの表れなのか、デジャヴにも似たノスタルジーが全ての記憶と現在を均一化しているという鬱の表れなのか。どちらが悪いと思う? そして僕は悪い方だと思う?(嫌ったSNS仕草をもってこの文章を終わりにしよう。これもまた本意ではない。結局、この文章はクロールでもバタフライでも、もちろんデカダンでもない。ぶくぶくぶく……)