反日常系

日常派

日々のアウトテイクス

 決まりきったニュースキャスターの悲しい表情が区のチャイムみたいに時刻を知らせる夕方四時四十五分。規則正しく混ぜられたような藍色に空が塗りこめられている。チャイムが鳴ればニュースキャスターは天気予報士に変わり、テーブルゲームみたいに地図に水色やら白色がまぶされた。予定された白色がその通り街に降れば、簡単に都市機能は停止するだろう。街から出ることは適わなくなるか、電車が遅れて車両にすし詰めになるか。どちらにせよ街から出る予定もないが、可能性が潰されていくことを思うと少しばかりの閉塞感を覚える。どこにでも行ける、が、どこにも行かないというのが引きこもりの心の安寧に役立つ心持ちなのであって、それがどこにでも行けないに変わるだけで、結果は何も変わりはしないのに何か奪われた気持ちになる。

 文章。どうでもいい風景やどうでもいい心象を描写した文章。僕のように文字を使って世界を認識している者にとって、文章は書き手がどのように世界を認識しているのかなのだ。人の世界の認識は視力が悪くなったり眼鏡をかけたりと同じように簡単に変わってしまう。そのため、認識が変わった時に今現在を追体験させるために文章を書き残すことが必要なのだ。誰かのためになるとは思わないが、僕は少なくとも未来の僕にとっては有用だと思って文章を書いている。書いている文章がいつか何かの役に立つと信じて疑わないのはハイパーグラフィアじみているが、何の役に立つこともないだろうと思いながら文章を書いている人なんているのかとも思う。

 子供の頃のテストの結果を見て懐かしむように、薬を沢山飲んだ時に書き残した文章を読んでいる。この記事の下の方にその文章をコピーアンドペーストしたいと思う。また薬か、と読者が独りごちる声が耳元で空想故の反響を伴いつつ聞こえた気がするが、人々の暮らしとは反復とそこからのズレだし、それが鼻につくかつかないかは自意識を伴うかどうかだ。ただ、先述したように、文章とは著者がどう世界を認識しているかどうかだ。故に自意識とは全ての文章に付随する物で、鼻につく自意識かどうかは僕の問題ではなく、読者の問題だ。僕は僕が好きでたまらない。香水が糞をどうこうした物であるのと同じように、僕は自分の書いた文章の間違いがとても良い物に感じる。フロイトは書き間違えや言い間違いは間違いたいという意図のもと行われていると考えていたという。フリックミスや句読点の重複から何を読み取ることが出来るのか、それは今の僕からは推測も出来ないが、また読み直した時にそれがわかったり、懐かしく思ったり出来ればいいと思う。

 

以下、コピーアンドペースト

 

 似合う薬をみるけること。それか一番オーバードーズするに当たっての難点である。

 僕、昨日はブロチゾラムを24錠一気に飲んだ。「今夜でっかい車にぶつかって死んじゃおうかな」という気分だ、 。万がに一にも億が一にもでも死ぬ可能性はない。今死のうと思うなら、風邪薬か鎮痛剤がベターだ。そんなことはわかってる。手をハンドルから話してみたいだけなのだ。それらになんの意味もない。結果、たんこぶひとつ出来ず、傷も出来ず、ただ一日を眠って過ごさせてもらった、

 更に、それだけでは満足できなくやってウットに手を出した。ウットは睡眠導入剤なのでモンスターエナジー二本飲んだ後にウットを飲んだ。起きていればハッピーらしい。ウットをあまりやりたくない理由の一つとして、成分が一昔前のもので、乱用すると脳が萎縮するためであった。ふわふわする感覚が薬のせいか全く分からない。それに強烈な眠気がする。薬のせいだろうか? 気づかないうちに、七時間眠っていたことに気づいた、夢もずぐうぐうねむっていられたんだがら、まあ、いい方かもしれない。

 一番薬に合ってたのはロラゼパムであろう。一シートを飲めば思考はペイブメントのアウトテイク集みたいになり、多幸感の中で過ごしていられた。その次がブロチゾラム、いい加減抗体が出来ているため、いくら飲んでも何ともないか、効き目があった時はふわふわと退行にも似た知能でざまさまな行動ができる。十数錠飲めば記憶なんか一瞬で消える、