反日常系

日常派

自堕落を許せ

 窓から射し込む光が夕陽に変わるその数刻前、光は反射故か神様が作った魔法故か、それとも僕の眼科的な疾病故か、赤みがかった虹色に変わり、窓辺にオーロラにも似たカーテンを吊す。窓辺しかないような狭い部屋でただそれを見つめながら、目を強く瞑った時のゆっくりとした明滅とそれに類似性を見出し、人類が体験出来る事物は人類の肉体の可能性と全く同じで、肉体の体験不可能な事は体験できないのではないかと考えては脅えた。

 例えば、神様の暗示と考えられた時期もあったという薬物は単に肉体に生じる医学的変化でしかなかった。この世には神様などなく、ただの偶然で人類は生まれ、この生に意味もなく、死はイコールで肉体と肉体の可能性の終焉と繋がるのではないか。神などいないのかもしれない。僕がこんなことを考えるのは、日本という意識的に信仰することも、無意識的に盲信することも叶わない土地に生まれたことが関係するのではないか、と訝しむ。

 僕の父親はよくわからない新興宗教にハマっていて、それが理由で僕は子供の頃から「信じるとは?」という問に向き合っていた。盲信は強迫性を伴わない限り幸せを意味するというのが、子供の頃からの僕の結論だ。盲信できることを羨ましく思いつつ、盲信するという動詞を認識した段階で盲信することはできないという事もなんとなく察していた。

 ないものねだりでしかないが、信仰が出来る文化的土台があれば信仰を間近で見てもそこに疑問符を投げかけることはなかったのではないか。最近増えてきている粗略な、人生を使ったテロリズムも、我が国の歪に冷静な作りが影響しているように思う。もう台無しになった人生に必要なのは盲信なのである。その点、キリスト教は上手くやっている。奴隷道徳は奴隷からテロリズム力への意志を奪い取り、心の安寧を与えた。どちらが幸せかは一概には言えないが、社会が成り立つためには盲信が必要とは言えよう。

 必要とは言えど、必要だからといってそれが直ぐに手に入るという訳ではない。どうすればその盲信は手に入るのだろうか。この社会が成り立つために必要としているのは、言い換えれば、一見そうすると成り立たないのではないかという程圧倒的に自堕落な許しなのではないか。優しく大丈夫だと言ってほしいだけなのだ。そしてそれに説得力がほしい。もしくは、社会が成り立たないほどの自堕落を救いとして享受したい。例えば(極端な例だが)、アヘン中毒に陥っていた頃の中国にテロリズムは存在していただろうか? 社会的弱者にドラッグを与えよ。例えそれが神の暗示でなかったとしても。神を信じえぬ国ではそれほど盲信は難しい。肉体的な体験でもなんでもいいから眼前に提示せよ。ただの自罰的な堕落さえ許すという態度しか、自殺と他害を同一視するような人々に安心を与えられないような気がするのだ。