反日常系

日常派

特にタイトルなし

 性欲がある。女性ホルモンを打つのをやめて四ヶ月経った。唾棄していた性欲を持ち直して、簡単に充足されない不足がついてまわる。もう二十五にもなるので、性欲からの潔癖症じみた逃避を続ける意志がなくなった。男性性へのイノセントな嫌悪も、なあなあにする緩い感情に負けた。性行為の後、しっぺ返しのような罪悪感を覚えるのか、それとも征服したという充足感に身を委ねてしまうのか、それがわかる予定は今のところ、そしておそらくしばらくは、ない。技巧としての本音は、建前を習得する前には現れない。本音しかないのは技術ではない。「本当」はだいたい見苦しいし、良い結果を生まない。性欲のことなど書かない方がいい。公言すべきでないことを公にするのは、あまりにも簡単な異趣だ。性を唯一のリアリズムのように扱うことを手放しには賛成できない。人目をはばかる故にそれが現実、及び現実的なものだとみなすのは悲観的にすぎる。

 なぜ、技巧ではない本音(つまりそれしかないというような徒手空拳)を書くのかと問われると、特に理由を自分の中には見出せない。本音を素晴らしいと思って選んで書いているわけではないからだ。語るべきべかざるの区別もつかないし、人の期待に応えようと言う気持ちもないし、そもそも受ける期待もない。期待があるとするなら、何を書いたかではなくどう書いたか、何で書いたかだろう。鉛筆画のスケッチをなぞって指先を黒くするような、作品に関与しないいたずらな好奇心。それだけでも俺に持っていただけるならありがたい。それ以上のことは身に余るし、手にも余る。人の指先に残るためには素晴らしい絵を描く必要はない。より多くの鉛筆の身をやつす事だけが必要だ。作品の完成よりも文を書いているという行為のためにこうして縦横無尽にフリックして、画面を文字で埋めているような気がする。 今日は性欲、明日は食欲、明後日は睡眠欲かもしれない。日記以下の独白だが、書くという行為がそれなりに楽しい。丸めたティッシュをゴミ箱に捨てるようにこれを書き続けるだろうし、手段を目的に変えて様々なことを浪費しているうちに、目的外の幸運として、誰か、読むという行為にとりつかれた人に出会えるといいなと思う。