反日常系

日常派

さよならではない

 好きだった古書店が潰れた。ないものに現在形の「好き」は不似合いだということがなんとも言えず歯がゆい。好きだった古書店には、第一に好きな店員さんがいて、好きな店主がいて、前提として多くの古本があった。本が陽に焼けるほどの光は窓から入らない店内に、いつもよくわからないヴァイオリンの曲がかかっていた。今ではその曲を思い出そうとすると店内までありありと思い出される。その風景の中には、好きな年上の店員と、口下手ながらも何かを伝えようとして(もしくはただ喋りたくて)、レジに安めの古本を束にして持っていく僕がいる。もう終わったことだから、脳裏には都合のいいフィルターが恋愛映画みたいにかかっている。

 店の最後の日に、なんとなくを理由にして店に行った。それはなんとなくを理由に店に行かなかった場合の後悔をしたくなかったからだ。

 入り口では店主がワードで打ち込んだであろう挨拶の手紙を来客全員に配っている。店はいつもより人が多く詰め込まれていて、若者が一眼レフを構え、失われるものを永遠じみた画像に収めようとしている。いつもは客が僕以外に見当たることはないので、いささか面食らって、チープなくせに尊大な独占欲が腹を立てた。葬送曲みたいなピアノが、サッドリーにラストシーンを彩っていた。僕は悲しみたくない故に、反射的に防衛機制で苛立った。悲しめと言われると悲しみたくなくなる。一眼レフを構えた若者がパシャパシャと写真を撮っている。その前にこいつが客として来たことがあるのだろうか。僕には出会ってもないのに別れるためにここに来たように思えた。最後の雰囲気を趣味にして、失われゆくものにだけ価値観を見出しているような奴らだろう。偏見だが。そのうち葬送曲が終わってヴァイオリンのいつものBGMに戻る。人の多さに眩暈がして、それでも喋りたいから、行き慣れた海外文学の文庫本棚の前に立ち、ジャン=フィリップ・トゥーサンの本を四冊掴んでレジに行った。店内の本はかなり少なくなっていた。前に来た時に店主が多くの本を紐で結び、片付けていたことが符号のように思い出される。レジには好きな店員がいて、僕は最後に相応しい言葉を頭の中で反芻していたのに全て忘れた。

「あっ」

 店員が僕に気付く。少し笑い合う。店員はマスクをしていなくて、顔を見れたことが嬉しい。

「どうも」

「お久しぶりです。今までありがとうございました」

「ああ、でもネット(販売)はやるんですよね?」

 そう言うと、店員は潤んだ目を僕から逸らし、僕の斜め後ろ一点を見つめた。

「あぁ、駄目だ」

 潤んだ目は涙をこぼさないように尽力していて、泣くまいと口元は一文字にきっと力を入れていた。僕はこれが僕との別れを惜しんでいるんだったらいいのにと考えた。そして、泣く女を目の前にした男の大多数がそうであるように、何も言えずに待っていた。涙は女の武器という使い古されて埃のかぶった時代遅れの語句が頭をよぎる。そのくせ言うべきことは何一つ思い浮かばなかった。

「あの、店主はネットで販売を続けるんですけど、私は独立するんですよ」

「そうなんですね」

「これ、貰ってくれませんか」

「ああ、いいですよ」

 店員はレジ横の紙の束から一枚を引き抜き、独立先の住所の印刷された紙を渡した。これが最後でなくてよかった。また会える。最後を引き伸ばし続けて、僕はこの人にえもいわれぬ好意を持ち続けるのだろう。

「行きますよ」

「ありがとうございます」

「いえいえ、こちらこそ」

 僕はペコペコと頭を下げながら、後ずさるように店を出た。店の前では、看板をバックに、集団がピースしながら一眼レフの画角に収まっている。僕は店員に何を言うべきだったのだろう。涙に対応する言葉はなくとも、店の最後にふさわしい言葉は見つけられたのではないかと思った。「お疲れ様でした」? 「店がなくなるの、寂しいです」? 何一つ最後を完成させる一ピースではない。まして、さよならではない。僕たちはさよならを言うほど仲良くはないから。最後にふさわしい言葉を類語辞典で辿ってみたが、どれもピンとこない。しかし、さよならが似合わない理由に、「今生の別れではないこと」、「また会えること」が加わったことが今はただ嬉しい。