反日常系

日常派

煙草を買いに行っただけの日

 十月になった。誕生月ということを除けば特に思い入れはなく、年が明けてからもそれなりに時間が経ち、一ヶ月区切りにして「もう○月」と言うのにも慣れるため、十月になっても特に感慨もない。今年の十月をもう十月たらしめているのは煙草の値上がりだろう。ほぼ毎年値上げされるため、もはや反抗の狼煙もあげる気を起きず、喫茶店のガラスで囲まれた狭い喫煙所に追いやられ、狼煙ではない煙をもくもくとさせている喫煙者。筒井康隆を例えに上げるのもいい加減「また言ってんのかよ」と思われるような迫害。そもそも、我々のような若い喫煙者(喫煙は二十歳超えてからなので喫煙者のうちで「若い」とされる年齢は喫煙者に限らない形容に比べると引き上げられている)は、もう迫害されている状態を見ながらその被迫害の最後尾に並んでいる訳で、迫害されればされるほど、「ああ、俺は煙草を吸っているのだ」と恍惚するというマゾヒスティックな性質がある。そう言っても一からは否定できない程度にはその傾向がある。

 煙草屋で煙草をレジに持っていくと、レジには珍しく店主夫婦がおり、商品棚に値段を改訂するシールを貼る作業をしていた。店主の妻はレジで印刷された値段表をペラペラ捲り、ゴールデンヴァージニアの文字を探すことに七〜八分かける。俺の後ろでは作業に精を出す店主がおり、店主を挟んで、急いでいる調子で煙草を買おうとしている若者がいる。あまりにも店主妻が値段表からゴールデンヴァージニアの文字列を探すのに時間をかけるため、若者は「ラキストください」と声を上げるが、店主妻は「ちょっと待ってね」と意に介さない。

 ようやくと言っていいほどの時間をかけてレジを終えると、店の前の喫煙所に老人がいて、安い煙草を啜るぐらいの勢いで吸っていた。依存に快感を覚えているぐらいでは中毒者ではないというのを、その二本目に火をつけるために風避けをする老人の丸い背中を見ながら悟る。

 思ったよりも軽くなった財布をスラックスのポケットに突っ込む。煙草の値段が覚えられないため、思ったよりも高い・安いを同じ値段に感じてきた前価格改定後の一年間だったが、これからの数ヶ月〜数年は思ったよりも高いを繰り返すのではないかと思えた。思ったよりも高いと感じた時が辞め時なのだろうと考えながら、辞められないふりをしながら(そして本当に辞められないのではなく、辞められないふりをしているのだと考えながら)、依存に快感を感じる。そのうち何事にも慣れた老人になり、啜るように煙草を吸うようになるだろう。磨耗にも似た老人の背中の丸さに、今までの積み重ねを感じる。