反日常系

日常派

途中で書くのやめた日記集

 割れるように頭が痛いとはもう比喩とも思われない慣用句だが、割れるように頭が痛い。視界の端を蝿が飛んでいて、気になると思うと髪に止まり、バチバチ言う羽音が不快感を覚えさせる。前髪が目に入るせいか低気圧のせいか、頭痛の原因を考えるがそれを突き止めても頭痛はうんともすんとも言わず、こめかみから動こうとはしないのだということがさらに頭に痛みを与える。俺の父親は酷い頭痛持ちで、頭痛がすると歩くことも喋ることも満足に出来なくなる。それは脳科学でも精神医学でも原因を断定するには至らず、とりあえずといった感じで『うつ病』という病名がつけられている。原因がないこと、そしてさしあたって適切な病名がつかないことはなんて孤独なのだろう。言葉とは人と人とが同じ概念を指し示すための用具だ。俺たちが言葉を鋭く研ぎ、暇さえあればつぶやいたり人に話しかけるのは自分が共有の道具を持っていることを確認したいためだ。それは共感と言ってもよい。一人しかいない場合、人は言葉を必要としない。俺が誰も見ていないだろうこのブログにピカピカに研いだ言葉を捨てておくのは、言葉を有することで誰かと繋がっていると勘違いしたいためだけだ。

 

 

 適当に色を抜いた髪を見慣れ、慣れてはそこから離れようとする気持ちが視線をヘアカタログに移させた。今以外ならどうにだってなれればいいと思うのは、今が最低だと思い込んでいるからだ。でももう二十六になる。手を替え品を替え、どうやってもいつも最低。そういう考え方の癖は既に嫌という程可視化されている。変われば変わるほど最低の現在地が更新されて、マシになることがない。色褪せていく髪色が前はどうだったかも思い出せない。自分にそれほど興味がない。なりたい姿にばかり目が行く。早く髪の毛が伸びたらいいと、そればかり願っている。嫌悪感から逃れようと思ってはやりたいことが増える。どうしようもない。

 映画を観た。IQが高いが大人になりきれない少女がセラピストの助言に従ってto doリストをこなしていくという筋だ。大人になれない人を大人が叱責するのは、大人が大人になるよう強制されたためなのだろう。映画を見ながら大人になれない少女の頬をひっぱたきたい気持ちに駆られた。少女が賢さをひけらかす度にも同じ思いに駆られる。俺は賢くなくて都合のいい人物が好きだと思い知った。

 

 

 

 何もしなくても日暮れ近くなればくたびれてくるようである。俺の元気はまるで朝顔のように萎びるのが早い。何をしたいと思う思わないに関わらず、出来ないことばかりで一番の正解は何も考えないということだ。