反日常系

日常派

大人名詞と子供名詞

 ユースカルチャーである反抗や感情や悩みや嫌悪……エトセトラ、エトセトラ。エトセトラの中に含まれる言葉はほぼ無限といっても過言ではない。無限を捨てて、およそ大人らしい分別を得ることが大人になるという言葉の非情なる実情である。脳に障害を持つ弟の尊くて穢らしい非成長を目にする度に、俺は大人とはなんなのかを考えざるを得ない。俺は歯科で麻酔を打たれ、弟のように口の端から涎をこぼしながら、弟の立ち振る舞いとも言えない立ち振る舞い(それは所作というより症状と言った方が適当かもしれない)を思い出し、言葉にできないものを捨て、言葉を得るのが大人になるということなのだろうと察する。感情を表に出すのは子供らしい。作り笑顔は大人らしい。人間失格で葉蔵と堀木が言葉を喜劇名詞と悲劇名詞に分別するのを思い出す。フランス語などは男性名詞と女性名詞に分かれている。喜劇と悲劇、男性と女性、それに連なる一つの分別基準として大人名詞、子供名詞というのも発明可能ではないか? それが実用的であるかは別にして、幼児に対する積み木のように、大人が言葉で遊ぶことは(俺には)それなりの暇つぶしになるような気がして気に入る。

 喜びは? 子供名詞。悲しみは? 子供名詞。怒りは? 考えるまでもなく子供名詞。そうして考えると、言葉で表すことができないような、辞書を引いてもいい所ニアイコールであるものは子供名詞だと思わずにはいられない。例えば絵画、例えば写真、例えば音楽。言語野がいかに優れているかはニアイコールの精度でしかないと言えばそれもそうだが……。子供に比べて大人が所有しているものの少なさは考えれば考えるほど身につまされる気分になるが、感覚を捨て言葉を所有することで我々が何を得ているかと言ったら、共感しかないだろう。子供が赤色をfirebrick #b22222以上の精度で感じている時、それを人に「耐火レンガ色」と言うことが大人の特権である。そう考えると共感は数少ない大人名詞ということになる。

 では、孤独は? 共感の対義語と定義すれば子供名詞のように感じるが、共感が存在するために孤独も存在するようにも思える。

 こんな言葉遊びで時間を浪費する大人を、子供は非共感で笑うだろう。大人に許されたのはノスタルジアしかない。ハイカルチャー(ユースカルチャーの対義語として使用しているが、間違いかもしれない)とは全てノスタルジアだ。ノスタルジー鬱病の変種だとラジオDJが言っていた。大人は失ったものの数を数えるくらいしか楽しみがない。「喪失」、「ノスタルジア」、「鬱病」は大人名詞らしい。大人らしい分別を持って、数少ない大人名刺であるそれらの匂いを嗅ごう。そして共に感じること、大人が大人らしく生きる道はそれしかない。そうしないことは退行して(退行とは戻ることではなく進歩しないことなのだが)ロリコン文化の末尾に並ぶことだ。悲しいことに大人がユースカルチャーを好んでも若者になれるわけではない。ただの病理の一つである。