反日常系

日常派

在る阿呆の一日

 今度は鬱だ。迷路を彷徨うように、同じ道にデジャヴを感じ、これでいいのかと悩んだりする。しかし、常日頃から自分が精神障害者なのか悩むことしきりなので、横たわって死にたいと思うこと、咳止め薬に助けを求めること、万々歳なのである。メンヘラに憧れてなどいない。ただ、自分がただの奇形としての不能ではなく、(能力不足という意味での)社会的な不能低脳であるということから目を背けたいだけなのだ。ただの不能は社会の中で、人それぞれといった甘言に鞭を打たれている。どうせなら奇形でありたい。人それぞれ以上の異常さで、単に生活を許されたい。世間より格下の存在として存在を許されたい。今日も死にたくてよかった。血管に針を刺し、針を通って血がどくどくと出てくる。ゴミ袋でちゃぷちゃぷとしている血が固まっていく。生きている実感などではない。生きている実感というものはなにもしていない時に立ち上がるものだ。死にたいが故に反面、自分の生活には生きている実感ばかりだ。誰かの精神の不調に関する言葉は、自分で使うには全く信用できない。なにか一つ動詞を作り出すくらいの気力が必要だ。誰かの手垢をなぞり、同じ場所に手を置くくらいできてどうする。我々奇形は奇形なりの想像力で立ち向かわなければならない。表現なら、言葉に対する生来の奇形を信じなければならない。エイトデイズウィーク、トゥモローネバーノウズ、そういったことだ。自分はRの書き方が生涯わからなかったアインシュタインのようだと思わないとやってられない。

 メンヘラというのは一つのカルチャーとして、今では立派な市民権を得ているようである。俺はそのカルチャーに属することはできないし、属そうとも思っていない。なにしろ、もう二十五だ。若者がなにに対して不満なのか、なにに対して不調なのか。今ではさっぱりわからん。俺は四捨五入すると零歳だとくだらないジョークを得る代わりに全てのイノセントを捨てた。幼さは歳を経るごとにグロテスクになっていく。舌を青くしたり、集団で薬を飲んだり、もういっぱしのカルチャーには距離を感じている。どうでもいいよ。メンヘラカルチャーとは精神薬文化だ。無意識の病理文化だ。未来を信じないヒッピーズだ。各々がダメになっていく。俺は生きたいと強く願うこともないが、死を掲げて享楽していく度胸もない。ただ、ただ疲れた。目を塞いで歩くことにはまだ度胸がついているようだ。わざわざ目を塞ぐことを楽しんじゃいないが。未来に対して目を強く瞑り、モザイクのような、万華鏡のような、そんな模様を見ることもない。楽しくなく、ただ首吊り台にまっすぐ進むしかない死刑囚のように、歩いているくせに足が止まる時の結末を知っている。一つは人に許されないことだ。許されるということに関して、医者に批判された考えに固執している。自分が人を騙せるとは思えない、自分が本当以上のことを言えるとは思えない、自分がつらくなければ人に許されるとは思えない。そうすると、自明、つらくあることが一番楽だ。落ち込むし、何もできない。そうする他ない。死にたいと思っている時だけ死を留保されている。そのうち本当に自殺する日が来て、死を決定されるのか、人に呆れられて死を決定するのか、自分には何一つわからない。ただ、俺は人間はいつか死ぬという帰納法に例外としては存在せず、自殺する人は自殺するというトートロジーに存在しているという二つのことだけを悟っている。