反日常系

日常派

写真なき近影

 出来事を一から説明するのが苦手だ。怒った時に気の利いた文句が思いつかないのも短所だ。月曜日、医者に行ったらこっぴどい態度で追い返される。そこから紹介してもらった病院に予約の電話を入れるも、受付のババアは話を聞いてんだか聞いてないんだか役割も果たせないような感じで、順調に俺の気持ちを逆撫でた。もちろんそこからも拒否される。あとは入院していた病院しかないが、にべもなく返答は先延ばし。バンドメンバーのさっちゃんを家に泊める予定があったが、疲弊で頬が持ち上がらず、笑顔がうまく作れないから予定をふいにしてしまった。せめてブログで医者を罵倒しようと思うも、どこがひどいと思い、どこが悲しかったかがうまく説明できないからやめた。気分の上下に振り回され、気分に終始する感情がほとほと嫌になる。

 その次の日はひどい偏頭痛で、何も手がつかなかった。

 そのまた次の日はアコースティックギターにピックアップをつけてもらう予定があったので、身体を引きずって外に出た。外に出たら気分が良くなり、無駄に店主と話などする。店を出たら近くのアート系の古本屋に行きたくなり、行く。こういう時は無駄なものを買ってしまうのが常。以前はミュシャ的な絵柄で裸が描写されている料理本を購入した覚えがある。必要のないものはなんで素晴らしいのだろうか。安くてエロい物を買う。エロと言っても単純に消費されるインスタントな物は置いていない堅物な棚だから、安心して裸を読み耽る。エレン・フォン・アンワースのRevengeを購入。性嫌悪だからか、逆に性の聖(きよ)さを信じている。信じるということはその事物の存在が曖昧であるということを認めるということだ。人とセックスしたときの罪悪感。それとは反対に単純に清清しい身体。裸は単純に美しいと思う。裸はタブーと思っているから惹かれているという幼い心も引きずっているだろう。裸はそれぞれ採点式の美醜はあれど、どれも美しいと思う。古本屋の写真集の棚からデザイン系の棚に移る。人間の体を使った宣伝デザインを集めた本(だと思う。異国の言葉で書かれているから意図を読み取ることしか出来ない)を立ち読みし、内容が女性の引き締まった身体や官能的な身体から、中年男性の不健康な身体に移るのを眺めた。なかなか面白い。

 これは何回も言った話だし、何回もする話だ。初めて閉鎖病棟に入った時、四十五の、いかにもサブカルといった女性に恋をした。その女性は「あなたは官能小説を書くか、ラップをしたらいい」と言った。流石に後者はする気がないけれど、前者になれればいいなと思う。偉大なるポルノ作家になれたら。しかしポルノ産業は股間を刺激しない、文脈のない、ただの美しい裸体を想像させるだけでは成り立たない。ただの美しい裸体。それがこの古本屋の棚に求めているものだった。必要悪としてキッチュでありたいと思う。しかし、世に残る物を書けたらとも思う。

 夜中、眠れずにベランダに出て煙草を吸った。今までは煙の塊を飲み込むような感覚があったが、すうっと肺の中に入る。最初は煙草に火がついていないのかと思って何回も火をつけた。子供の頃、コーラと間違えて酒を飲んで、酔っ払うことが怖くてすぐに寝たことを思い出した。これが慣れるということか。慣れることは良し悪しに関わらずいろんな部分を不感症にさせていく。これからやっと大人になって、裸も美しく感じなくなって、キッチュな裸にインスタントな欲求を満たすようになるのだろうか。何にしろ、慣れていかなければならない。それが成長なのだろう。露茎のように始めの感覚が薄れていく。しかし、まだ二十五の半ひきこもりだ。まだまだ慣れていないことだってあるはずだ。まだ季節に敏感にいたいし、季節の節を感じる物事を全て知っている訳ではない。病院も決まっていないしどん底だ。最近まで死ぬと決めて生きていた。しかし最近はまだ生きると決めているので、その分だけ楽観視している。