反日常系

日常派

年寄り、独りごちる

 楽しくなりたくて酒を飲んでいるのに、全く気分は上向かない。少しでも楽しいことをしようと思ってブログを書くけれど、書きやすいことは「とても辛い」ということだけで、書いてるだけで気分がくさくさしてくる。

 映画を見るけれど、文章にして残す感想は全く出てこない。感想は学校教育の頃から正解を求められているので、「面白い」だとか「よかった」という感想では説明不十分な気がして何一つ書けない。技巧的なことを書こうにも、そんな知識は持ち得てないし、子供の感想を書きなぐっても読者も筆者も得られるものはないだろうと思ってやめてしまう。

 そもそも、何かを得ることができるとか何かを与えることができるというのが驕りと言ってもいい大きな間違いなのだ。何かを書くには、「これが本当に無為なものであってもいい」と思うことが必須なのであり、「これが何かの為になるだろう」と思っていては何も書くことが出来ない。

 

 歳を取れば勘違いする権利すら奪われていく。なにかに感動することさえ難しくなっていく。既視感が感動する目を濁らせていき、小さな差異(そしてその実、感動に至らせるのはその小さな差異によるのだが)は大きな既視感に飲み込まれてつまらなく思わずにはいられなくなる。貪欲な、感動したいという気持ちがあれば少しはそれを避けることが出来るのだろうけれど、年々奪われていく体力が、感動する体力すら奪っていく。なにかに熱中するということは、最早オタクですらない今では、新興宗教にしか適用されない気がする。歳を取った人々が新興宗教にハマる気持ち(そしてそれは俺の父親の気持ちである。私小説的な注釈だが)が今になればわかる気がする。学生の頃、友達と話をするために夜中まで起きて美少女なり自称普通の高校生なりが話すアニメーションを見ていたのが、体力を失い、すぐに理解できる戒律にすり変わっただけなのだろう。俺の体力がないのは、歳のせいなのか病気のせいなのか知らない。しかし、結局は体力を失えば楽しいと思うことすらやりにくくなるというのは定説であるようである。

 失った物のことばかり考えるけれど、失う物を事前に知ることは難しいようである。今また大学の頃に戻ったら映画サークルにでも入りたいと思うけれど、当時は当時の考えなりに考えてこうしてきたのであって、それを軽視することはより今現在を情けなく思うことになりそうなのでやめておく。ただ、恥ずかしい過去が沢山あるけれど、今はもう、恥ずかしい過去を知っている人との繋がりすらない。昔はそうしたいと思ってそうしたのだろうけれど、ただ孤独をより哀しく響かせるその決断だけはやめておけばよかったと思う。