反日常系

日常派

夏の終わり

 夏が終わる。夏の終わりの切なさや焦燥すら、それほど身を焦がすわけでもなくなってきた。いくつになっても夏の終わりに物哀しく思える人と、自分との差異は何処にあるのだろう。灰皿の底に熱を擦り付けることを何回も繰り返して日々が過ぎる。無益な日々にそれほど焦りを感じなくなってきたのは、自分がもう若くないからだ。若さの中のグラデーションの色と、若くない範囲のグラデーションでは重要さがてんで違う。彩度はもうすり減って、汚い色がさらに汚くなることには全然気を配らなくなってきた。一回汚れたらもう綺麗でいることにこだわりがなくなるような、そんな感じ。自分に対して思う処女厨の気持ち。

 歳をとることにも慣れて、若くないと言うことにも慣れた。今慣れていない物事を思い出すのにも時間がかかる。ここ五年くらい他愛もない話を投げあっていたどこかの丁寧な暮らしの人妻がカカオトークを辞めていた。昔はとても依存していたのに、今になっては特に心は揺さぶられない。別離にさえ不感症な愚鈍な心。それを慣れた手つきで自嘲する自分の口元に、自嘲用の皺ができていないかを確認した。幸いにしてまだ皺はできていなかった。でも、それだけだった。

 いつかまた手酷く傷つきたい。感情を強く揺さぶられたい。手酷く傷ついた時の「自分はまだいける」と思えるアレをもう一回感じたい。感傷は耐性ばかりついて、「もっと強く」と要求するジャンキーだ。つまらないことで悲しいふりをするのは飽きた。本当に悲しいことを悲しいと感じたい。何かの終わりに、または何かの途上に、感情の兆候を見出してどきどきしたい。

 再来月には二十六になる。一年はすぐに過ぎて、喉元は「二十七になる」と言う準備をすることになるだろう。本当に悲しい。いや、嘘。悲しいというより無常観だ。無常観というよりアパシーだ。悟りと憂うつ症状はとてもよく似ている。諦めも同じ色を持っている。夏もベンゾジアゼピンを飲み慣れた同じ顔つきで、西の空に帰っていった。きっと何も感じずに、いつもの手続きを経て今年も死んでいったのだろう。