反日常系

日常派

日記

 摂取しすぎて毒にも薬にもならない音楽を、何を言っているのかを査収することもなく聴いている。近頃は何をする気力もなく、それを伝えると医師は我が意を得たりと言いたげな表情で「夏バテですよ」とでも宣うだろう。少し前なら梅雨、更に前なら五月病、もっと前なら冬を簡単に理由として宛てがわれる僕の憂鬱が、少しでも病的であってほしいと祈るのは僕だけのようで、医師の診察などは言葉遊びを目的としているとしか思えない。そもそもの話をすれば、常に憂鬱の根源を季節などに求めるのはメランコリックなのであって、メランコリーは元々──今で言うところのメンヘラ同様ポップカルチャーに薄められてしまっているが(文学が新しい言葉を持ち込んだのだが、今ではそうでないことが悲しいことに、昔は文学さえポップカルチャーだったのだ)──病気である。果たして僕が季節性の憂鬱を抱えているのか、医師が患者の総体からメランコリーの理由を推察しているに過ぎないのか、単に医師がメランコリックなのか、僕には悪意抜きで考えることはてんで適わない。

 汗をかき、額の汗が僕に眉毛がないことを理由に目に流れ込んでしまう。ティッシュで額と目を拭いていると、あまりにも泣いているような格好で、ふと演技が真に感じられるような感覚に襲われ泣いてしまいたくなる。特段、悲しいことはないのに悲しいふりをしてばかりいる。特に悲しいことはないのだ。ただ、無気力に暮らしている。服を着替えるだとか風呂に入ることすら意欲が湧かず、外に出る必要があるとようやく風呂に入る。湯船に浸かっていると、このまま溺れたら映画か絵画か、何かしら画になるだろうと、薄ぼんやりとした希死念慮と何者かにカメラを回されているような自意識過剰の相まった、濁った水としか言えない味を感じる。それもそのはず、僕は気づかないうちに──とは言い過ぎだろうけれど。気づかない風を装って。より画になるように(まるで演奏記号のような注釈でほとほと嫌になるな)──椅子に浅く腰かけるようにして、口を湯船に突っ込んでいた。

 まあ、人間には鼻もあるし、湯船で溺れるのはあまりにも汚らしいだろうという意識も当然あるので、無事僕は風呂から上がり、体を拭き、つまった排水溝が水をユニットバスのトイレ側に吐き出してその床をびしょびしょにするのを眺めることが出来た。垢や髪の毛も含んで底で逆流する水に踝を浸してユニットバスを後にした。

 何かしら書くことがそれ自体の意味となっているような、本末転倒の文章を書いたが、書いたことに意味があると信じ、何ならいつか無意味に意味のサーチライトが当てられることを祈って公開する。ハイパーグラフィアを装う。書く事が祈りなのか、書く事で既に救われているのか、後者であることを無邪気に信じている。